は案内も乞はずに上つてきた。洋装に着換へてきたが、自分の家と同じやうな自由さで、外套をぬいで、火鉢に手をかざした。これは凄いやうな外套だね、と青々軒が嘆声をあげたが、キミ子は火鉢の上で焼かれてゐるお好み焼を指で抑へて、これを私にちやうだいよ、といつた。
 ヒサゴ屋の帰る姿が淡白だつた。それが太平に落附きを与へたが、青々軒のおかみさんが二人の寝床を敷いて引上げてしまふと、キミ子が外套を着はじめたので、太平は再び混乱した。それと同時であつた。キミ子は彼の胸の中にとびこんでゐた。「知つてゐたわ。知つてゐたわ」と叫んだ。それは太平がキミ子に思ひを寄せてゐるのを知つてゐた意味であらうと思はれたが、太平はそれを訝るよりも、実際にさうでしかないやうな激情に憑かれた。彼は傍に寝床の敷かれてゐることを意識したが、キミ子はそれを顧慮しなかつた。太平は凄いやうな外套だねといつた青々軒の言葉が意識に絡みついてゐたが、キミ子は外套をぬがず、又、それを意識するいさゝかの生硬な動きもなかつた。愛情のほかの何事をも顧慮しなかつた。
 翌朝太平の頭にはキミ子の脱がなかつた外套のことが絡みついてゐるのであつた。けれどもそ
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