その日から太平の懊悩が始まつた。キミ子の肉体を失ふことが、これほどの虚しい苦痛であることを、どうして予期し得なかつたであらうか。夜更けの外套を思ひだすとき、太平の悔恨は悶絶的な苦悶に変るのであつた。あの夜更けキミ子はなぜ外套を着けはじめたのだらう? なぜ外套を脱がなかつたのだらう? 飛びついてきたキミ子は狂つた白痴のやうだつた。うつろであつた。泣いてゐた。キミ子のまつしろな肉体を思ひだすとき、それがいつか外套になり、外套を思ひだすとき、まつしろな肉体になるのであつた。訪れる夜ごとに眠れなくなり、暗闇が悔恨と苦悶にとざされてゐた。
 十日ほど経て庄吉からの手紙がきて、キミ子も待つてゐるから遊びに来いといふことが粉飾もなく書かれてゐた。その寛大な友情に太平は感動するのであつたが、その友情が極めて異常なものであり、庄吉の生活と性格が奇怪なものであることを、極めてかすかにしか意識してゐなかつた。舟木だの小夜太郎だの花村だの間瀬だの富永の顔をうそ寒い憎悪をこめて思ひ描くことはあつても、その憎悪と同じぐらゐの激しさで、庄吉の友情を裏切ることの切なさを嘆いたことは殆どない。太平の心は極めて自然に庄吉
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