は案内も乞はずに上つてきた。洋装に着換へてきたが、自分の家と同じやうな自由さで、外套をぬいで、火鉢に手をかざした。これは凄いやうな外套だね、と青々軒が嘆声をあげたが、キミ子は火鉢の上で焼かれてゐるお好み焼を指で抑へて、これを私にちやうだいよ、といつた。
ヒサゴ屋の帰る姿が淡白だつた。それが太平に落附きを与へたが、青々軒のおかみさんが二人の寝床を敷いて引上げてしまふと、キミ子が外套を着はじめたので、太平は再び混乱した。それと同時であつた。キミ子は彼の胸の中にとびこんでゐた。「知つてゐたわ。知つてゐたわ」と叫んだ。それは太平がキミ子に思ひを寄せてゐるのを知つてゐた意味であらうと思はれたが、太平はそれを訝るよりも、実際にさうでしかないやうな激情に憑かれた。彼は傍に寝床の敷かれてゐることを意識したが、キミ子はそれを顧慮しなかつた。太平は凄いやうな外套だねといつた青々軒の言葉が意識に絡みついてゐたが、キミ子は外套をぬがず、又、それを意識するいさゝかの生硬な動きもなかつた。愛情のほかの何事をも顧慮しなかつた。
翌朝太平の頭にはキミ子の脱がなかつた外套のことが絡みついてゐるのであつた。けれどもその外套にはいさゝかの傷みも残されず、小さな皺も、ひとつの埃すらもとゞめてはゐなかつた。太平はもはやキミ子の肉体に憑かれてしまつた自分を知つた。そしてキミ子の肉体が外套にこもつて頭にからみついてゐるのを知つた。昨夜は何事もなかつたやうなキミ子の顔を見るよりも、何事もなかつたやうな外套を見出すことが不思議で、暗い情慾の悔恨と、愛情のせつなさをかきたてられるのであつた。
この一夜の飛躍の中で、太平には全てが分かつた。舟木も間瀬も花村も小夜太郎も富永も、過去に於て(あるひは現在すら)キミ子と関係をもつ人々なのだ。青々軒とヒサゴ屋だけが、たぶん例外なのであらう。太平は情慾の一夜が庄吉の影によつて殆ど乱されることのなかつたのを思ひだしたが、今となつても庄吉の友情を裏切つてゐる悔恨がさして浮んでこなかつた。それよりも、舟木や間瀬や小夜太郎らの情慾に痛烈な敵意を覚えた。
「みんな知つてゐるよ」
と太平はいつた。それは非難の意味ではなく、すべてを知つた上での愛情を知らせるための意味だから、彼の顔にはやはらかな微笑があつた筈だつた。けれども、キミ子の顔は曇り、目をそむけた。再び顔をあげて太平を見つめたキミ子の目は、何物をも引きこむやうな一途なにぶい油ぎつた光にみたされてゐた。一途に思ひ決した幼い子供がこんな目附をすることがあるのを太平は思ひだした。
「死なうか」
顔色がまつしろになり、目が益々はげしく見開らかれて太平の顔に据ゑつけられた。
「死にませうよ」
太平は当惑した。愛情は常に死ぬためではなく生きるために努力されねばならないこと、死を純粋と見るのは間違ひで、生きぬくことの複雑さ不純さ自体が純粋ですらあることを静かな言葉で説明したいと思つたが、キミ子の心はさゝやかれてゐる言葉以外の何事をも見失つた一途なもので、少くとも感情の水位が太平よりも高かつたから、太平は低い水位から水を吹き上げることの無力さを感じることで苦しんだ。死をもてあそぶ感動の水位などは長い省察を裏切るだけでつまらぬことだと思ひながら、やつぱり水位の低いことが負《ひ》け目に思はれ、腹が立つてくるのであつた。キミ子は急に目をそらした。
二人がひと月あまり遊び廻つて太平のアパートへ戻つてくると、庄吉からの手紙が彼等を待つてゐた。キミ子には帰つてくるやうに、太平には何事もなかつたつもりで又遊びに来て欲しいと書かれてゐた。
「死んでちやうだい、一しよに……」
と再びキミ子が叫んだ。まつしろな顔と、幼い子供のひたむきな目が、再び太平の顔にまつすぐ据ゑつけられてゐた。けれども、その感情のどこかしらに奔放ないのちが失はれてゐた。そのひと月に二人をつなぐ情熱自体がうらぶれたしるし[#「しるし」に傍点]であるにすぎなかつた。
「生方さんに悪いからか」
「生方は本当に善い人よ。はらわたの一かけらまで純粋だけの人なのよ」
すると太平の顔色が変つて、
「そんな人間がゐるものか!」
と叫んでゐた。その目には憎悪が光つてゐた。するとキミ子の目も憎悪をこめて太平にそゝがれてゐた。太平はこの動物的な女の情慾の疲労の底から人間の価値が計量せられてゐることに全身的な反抗を覚えてゐたが、それがキミ子への愛情を本質的に否定してゐるものであるのを意識せずにゐられなかつた。二人はもはや愛撫の時も鬼の目と鬼の目だけで見合ふことしかできなかつた。
「もうあなたには会ひたくないわ。私の目のとゞかないところ、満洲へでも行つてしまつてちやうだいよ」
やがてキミ子はさう言ひ残して庄吉のもとへ帰つて行つた。
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