つぶされた意慾の底で神経の幻像と悪闘してゐる変質者だらうと考へた。
 ところがそれからの一夜のこと、機関士の間瀬が太平に食つてかゝつて、彼の重い沈黙のためにある時は一座が陰鬱なものになり、又ある時は彼のがさつな哄笑壮語のために一座が浮薄なものとなる。一座の神経を考へず粗雑な自我を押しつけて顧みない。芸術家ぶるな、といつて怒つた。言葉の意味は舟木の非難と共通のもので、二人はたぶん太平に就いて日頃忿懣を語りあつてゐるのであらうと思はれたが、間瀬のいかにも船乗りらしい体力的な忿怒の底にひそむものは、舟木と同じく嫉妬であるといふことを太平は見逃さなかつた。
 なるほど、太平はキミ子の電話によつて呼びだされてくるのだが、それはこの家の習慣で、他の人々も同じことであつたらう。キミ子は太平に特別の好意を示してはゐなかつた。たゞ彼を常に上座に坐らせたが、それは彼が新たに加入した不馴れに対するいたはりと、庄吉が常に太平をわが第一の友とよぶことに対する自然の結果にすぎなかつた。キミ子は一座の人々を、あなたがたスレッカラシとよんで、太平だけを、この方は純粋な方だから、といふことが時々あつたが、悪意も善意もない言葉で、言葉だけの意味からいへば、純粋などとは意気とか粋の反語にすぎず、太平の武骨や粗雑さを確認するにすぎないやうな意味でもあるから、人々の皮肉な苦笑を生むだけのことだ。
 太平の方も、キミ子の魅力に惹かれるところは少かつた。十人並よりは美人であるが、特に目を惹く美しさではない。芸者あがりの立居振舞、身だしなみには流石《さすが》に筋が通つてゐるが、教養は粗雑で、がさつの性であり、舟木の所謂「化粧された精神」などとは凡そあべこべの低い女だ。二十七の小柄な敏捷な身体に肉慾をそゝる情感は豊かであつたが、概していへば平凡の一語につきるあたりまへの女である。内外ともに顧みて舟木や間瀬の嫉妬をうけるいはれの分からぬ太平であつたが、そのために深く気にとめることもなく、こだはる気持も少かつた。
 ある黄昏、例の電話に呼びだされて出向いてみると、その日は庄吉が十日ほどの商用に出発したとのことで、青々軒とヒサゴ屋だけが姿を見せてゐた。こんな無礼講じみた集りにも党派めくものが生れるもので、青々軒とヒサゴ屋はどちらかといへば太平に好意を示してゐた。今夜は外の連中は来ない筈だから気の合つた人達だけでお酒にしませうよと、男達がほろ酔ひになり、青々軒が浪花節だの清元だのと唸つてゐると、舟木と間瀬と花村が跫音《あしおと》を乱してドヤドヤとなだれこんできた。彼等は泥酔してゐた。一座はまつたく乱れて連絡のない交驩《こうかん》、唄声が入り乱れてゐるうちに、わづかのキッカケで間瀬が太平に詰め寄つて、貴様は帰れ、と叫んでゐた。かねて間瀬の人柄を憎んでゐたヒサゴ屋が、太平に対する同情よりも個人的な怒りから立上つて、面白くねえ野郎だ、貴様ののさばるのが俺は何より嫌《きれ》えなんだ、と威勢はよいがよろけてゐる。同じやうによろけてゐる間瀬を兄貴分の花村が押へて、落合さん、俺は君が好きなんだ。俺は船乗りで海を眺めて暮してきたが、君は海に似てゐるなア。君はいゝ。君の横から太陽がでて沈んで行くのだ。吾は知らず、たゞ茫洋たり、といふやうだなア。間瀬が花村に飛びついたので喧嘩になるのかと思ふと、間瀬は肩に縋りついて泣きだした。その間瀬を花村は抱き起して、モン・ブラーヴ・オンム(好漢)マドロス・ダンスをやらうぢやないか。ハムブルグでもマルセーユでも我等の鋪甃《しきいし》を踏むところ酒と女と踊は太陽と一しよについて廻つてゐたのだからな、と間瀬をかゝへて立上つたが、間瀬がずり落ちてしまつたので、彼はひとり巧みな身振り腰つきでソロを始めた。宴席は荒れ果てて、各自が各自毎の焦点に拠り、他を見失つてゐる。青々軒が呼びにきて目配せをするので太平がついて出ると、キミ子とヒサゴ屋が玄関にをり、青々軒さんのうちで待つてゐてね、あとから行くわ、とキミ子がさゝやいた。すべてのものを打ち開けた激しい力がキミ子の目と小さなさゝやきの上を走つた。茫然とした太平は咄嗟に言葉を失ひ目で応じたが、するともうキミ子の姿は消えてゐた。
 青々軒は一升瓶を持ちだしてきて茶碗酒をすゝめ、長火鉢でお好み焼を焼きながら義太夫を唸つてゐたが、太平は見合せた目と目のことを思ひつゞけて落附かなかつた。一瞬のためらひもなく即座に応じた自分の目のことを思ひだすと、そぶりにも見せなかつた浅はかな心が見すかされて苦しかつたが、今はもう一途にキミ子を待つてゐる自分の心に気づくのだつた。青々軒がすべてを知らぬ筈がないと考へると、それに関した意味の深い寸言を吐いて心の余裕を示したいと思つたが、実際の彼の心は徒らに空転するにすぎなかつた。
 長い時間は待たなかつた。キミ子
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