空の中に見たキミ子の肉体を反芻しながら、あの肉体はすでに去つたといふことを妙に爽やかに思ひつゞけてゐるのであつた。
 太平はひと月あまりトランクを眺めて暮した。奇妙に虱はもうゐなかつた。そのことが時々変な気がするのであつた。虱の中に可愛い女が棲んでゐた。いつか洗濯してあげるわねと言つたが、洗濯などはしてくれなかつた。
 このトランクを庄吉に返してやらうと太平は思つた。なぜなら、トランクを眺めて暮してゐる太平の姿を、キミ子の目が見てゐることを太平は感じるからだつた。キミ子がトランクを取りに来て、それが庄吉にとゞけられてゐることを知つた時のキミ子の当て違ひを考へて、太平は満足を感じた。けれどもキミ子がそのために怒ることを考へると、不安と満足と対立するので苦しんだ。
 太平はトランクをぶらさげて庄吉を訪ねた。
「どうだい。温泉へでも行つてみないか」
 と庄吉がいつた。
「どこへ行つても同じことぢやないかな。我々は」
「ハッハッハ」
 庄吉は箪笥の戸棚から幾つかの人形をとりだしてきた。それは綿をつめて作つた布の人形で、みんな女体であるが、頬紅をぬつたり大きな眼が油つぽく澱んでゐたり、腹だの脚だの腕だのが変にぶよぶよと肉感的で、腕をまげたり腰をくねらせたりして見てゐると生物に見えてくるのであつた。
「みんなキミ子の作品だ」
「こんな芸がある人かねえ」
 それらはたしかに相当の作品だつた。どこかしらキミ子に似てゐるやうに思はれた。どの人形も理智よりも肉体の情慾ばかりであつた。絡みつくやうなしつこさと、狙つてゐる肉慾の目があつた。
「好きなのを取りたまへ。部屋の飾り物には不向きかも知れないがね。変に息苦しいやうなところがあるなア」
 と庄吉がいつた。
 けれども太平は人形を貰はずに戻つてきた。いとまを告げるまでは矢張り貰つて帰らうかと思ひ迷つてゐたのであるが、外へでるとその迷ひは消えてゐた。低俗な魂への憎しみが高まつてゐた。暗闇を這ひずるやうな低い情痴と心の高まる何物もない女への否定が溢れ、その暗闇を逃れでた爽かさが大気にみちて感じられた。あの人形もずゐぶん奇妙な肉感に溢れてゐたが、そして、どこかしらキミ子に似てゐたが、と、太平はゆとりの籠つた追想に耽つた。だが、冬の夜更けの外套と青空の下の情熱はさすがに見当らない。あの外套とあの青空がなければ――そしてその外套もその青空もすでに戻らぬことに思ひ至ると、鋭い痛苦が全身を砕き、太平はたゞ千丈の嘆息のみを知るのであつた。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「中央公論 第六一年第七号」中央公論社
   1946(昭和21)年7月1日発行
初出:「中央公論 第六一年第七号」中央公論社
   1946(昭和21)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
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