ら間もなく舟木とキミ子は実際に行方をくらました。二人が服毒自殺をして、二人ながら命はとりとめたといふ新聞記事を見出したのは幾日かの後であつた。

          ★

 太平は毎日ねむつてゐた。眼をさましてゐたが、眼をさまして眠つてゐた。そして食事のためにだけ外へでる。億劫になると一日に一度しか食事にも出なかつた。
 ある日外へでて、もう春も終らうとしてゐることに気がついた。まだ冬のつゞきのつもりでゐたのである。すべての樹々はまぶしいほどの新緑にあふれてゐた。
「驚いたなア」
 彼はむせぶやうに新緑の香気を吸つた。彼の部屋には、まだ真冬の万年床が敷かれてゐた。
 すると、唐突な初夏と同じやうに、突然キミ子が訪ねてきた。小型のトランクを一つぶらさげて。
「しばらく泊めてちやうだいよ」
 キミ子は男が狂喜することを知つてゐた。その男を冷然と見下してゐる鬼の目がかくされてゐた。二人をつなぐ魂の糸はもはや一つも見当らず、太平はキミ子の肉体を貪るやうに愛撫して、牝犬を追ふ牡犬のやうな自分の姿を感じてゐた。キミ子の肉体すらもすでに他所々々《よそよそ》しかつたが、太平は芥溜《ごみため》をあさる犬のやうに掻きわけて美食をあさり、他所々々しさも鬼の目も顧慮しなかつた。陰鬱な狂つた情慾があるだけだつた。
 庄吉が訪ねてくると困るからとキミ子は運送屋をつれてきて別のアパートへ引越させた。そこから多摩川が近かつた。キミ子は太平をうながして、二人は毎日釣りに行つた。
 キミ子の腕はむきだされてゐた。キミ子のスカートは短かつた。靴下をつけてゐなかつた。キミ子の釣竿は青空に弧を描いたが、それはまつしろな腕が鋭く空を截《き》ることであり、水面に垂れたまつしろな脚がゆるやかに動くことであつた。二人は毎日ボートに乗つた。キミ子は仰向けにねころび、上流へ上流へと太平に漕がせた。上流へさかのぼるには異常な精力がいるのである。喉の渇きと疲労のために太平の全身は痛んでゐた。苦痛と疲労のさなかから目覚ましく生き返るのは情慾のみであつた。キミ子は髪の毛の上に両手を組み、目をとぢてゐた。まつしろな脚が時々にぶく向きを変へた。それを見すくめる太平の目は、情慾の息苦しさに、憎しみの色に変るのだ。乱れた呼吸が上体の屈折ごとに呻きとなつて歯からもれ、額の汗が目にしみた。河風が爽かであつた。
 太平はキミ子のまつしろな脚と腕とに小さな斑点をさがしもとめた。なぜなら太平はひと月あまり虱に悩まされてゐたからだつた。夜毎の痒さに堪へがたく、たぶん皮膚病であらうと思ひ薬をぬつた。ある日一匹の虱を見つけた。生れて初めて虱を見た。シャツや猿股を日向で見ると、日陰では認めがたい小さな虱が無数にゐた。卵も産みつけられてゐた。太平はそれをつぶすのが毎日の仕事であつた。太平は虱を咒つてゐた。けれどもキミ子の脚と腕には太平のさがす斑点がなかつた。
「君は虱に食はれなかつたか? 僕の寝床に虱がゐるんだぜ」
「虱ぐらゐ平気よ」
 キミ子は薄目をあけて平然と答へた。
「私は虱のいつぱいゐる家で育つたのよ。身体も、髪の毛も、虱だらけだつたわ。熱湯をそゝぐと、すぐ死ぬわ。いつか洗濯してあげるわね」
 太平は「可愛いゝ女」を見た。それは果実のやうな情慾を一そうそゝるのであつた。
 ボートを岸へつけて、二人は上流の叢《くさむら》に腰を下した。漕ぎ疲れた太平は全身がだるく、きしんでゐた。彼の掌は肉刺《まめ》が破れ、血と泥が黒くかたまりついてゐた。その肉刺の皮をむしりとり、泥をぬぐひ、痛さを測つてゐるうちに、憎しみと怒りに偽装せられた情慾がもはや堪へがたいものになつてゐた。彼はもう白日の下であることも、見通しの河原であることも怖れない気持になつた。見渡すと、ひろい河原に人影がなく、小さな叢が人目をさへぎる垣になつてゐることを悟つた。太平はキミ子を抱きよせた。ふはりと寄る一きれの布片のやうな軽さばかりを意識した。キミ子は待ちうけてゐたやうだつた。優しさと限りない情熱のみの別の女のやうだつた。キミ子は強烈な力で太平を抱きしめ、黒い土肌に惜しげもなく寝て、青空の光をいつぱい浴びて、目をとぢた。
 太平は再びキミ子の魔力に憑かれた不安で戦《おのの》いた。冬の夜更に脱がなかつた外套と同じやうに、青空の下で、キミ子は全ての力をこめて太平をだきしめ、そのまゝ共に地の底へ沈むやうな激しさで土肌に惜しみなく身体を横たへた。その強い腕の力がまだ生きてゐる手型のやうに太平の背に残つてゐた。
 いつ頃のことであつたか、あるとき花村が情慾と青空といふことをいつた。印度の港の郊外の原で十六の売笑婦と遊んだときの思ひ出で、青空の下の情慾ほど澄んだものはないといふ述懐だつた。すると舟木が横槍を入れて、情慾と青空か。どうやら電燈と天ぷらといふやうに月並ぢ
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