この野郎!」
 太平は仰向けに倒れ、その上に庄吉も重なつてゐたが、太平の顔を濡れた熱いものが流れるので、庄吉の涙が彼の顔に落ちてくるのだと思つたが、実は自分が泣いてゐた。庄吉の眼もうるんでゐるやうに思はれたが、彼は泣いてゐなかつた。
 しばらくの後、二人は碁盤をはさんで元の位置に向き合つてゐた。
「碁をやらうか」
 今度は太平の方からいふと、庄吉の目にやはらかな光がさして、
「落合さん、俺は君が憎めないのだ。俺は君が好きだ。君だけは今でも信頼してゐる。業《ごう》といふものだなア」
「業?」
「フッフッフ」
 そのときになつて、庄吉の細い目から一しづくの涙が流れた。太平は慟哭したい気持をこらへで、かすかに身がふるへてゐた。
 その日太平が帰るとき、キミ子が待つてゐるから又昔のやうに遊びに来てくれといふことを庄吉は繰返し言ふのであつた。その言葉を思ひだすと(否、その言葉は二六時中彼の耳から離れずに響いてゐた)二つの全く逆な心が同時に動きだすのであつた。一つはもう行くまいと思ふ心で、一つは行かずにはゐられない力であつた。
 するともうその夕方にはキミ子の電話がかゝつてきた。太平は幸福のために羽ばたく鳥であるやうな慌たゞしさで出かけるのだ。覚悟してゐた人々の悪意の視線は殆ど彼にそゝがれず、キミ子は以前と同様に床の間の席を彼にすゝめ、その席を占めてゐた間瀬がすこしもこだはらず立上つて、自ら太平にすゝめるのだつた。その朝太平が訪れた時はその沈鬱な顔色を一目見て姿を消して再び現れてこなかつたキミ子であるが、何事もなかつたやうな自由さで今は語り笑つてゐる。その凡庸な魂に巣食つてゐる一きは小癪《こしやく》な動物的な嗅覚を太平は憎まずにはゐられなかつた。太平の再度の現れを平然と迎へてゐる人々は、キミ子の心が再び太平に向けられないといふことを見抜いたからではあるまいかと思ふと、太平の心はすくみ、おだやかに席を譲つた間瀬の様子が彼を斬る最も鋭利な刃物のやうに思ひだされてくるのであつた。
 太平が便所へ立ち、濡縁へ出て、冬庭の暗闇の冷たさを全身に吸つてゐると、便所へ降りてきた花村が見つけて、
「落合さん。君は純な男だなア。僕は君が好きなんだ」
 花村は彼の手を握つて、大胆な率直さで、
「落合さん、あの女はてんで君の純粋な魂に値する立派なしろものぢやないんだよ。あんなものにこだはりたまふな。
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