んでくるやうに感じた。俺の消息をさぐりに来るのだ、と思つたが、さりげない風をして、
「何か用があるのかい?」
「さあね」
 青々軒の顔色からは予期したかすかな感情も読みとることが出来なかつた。彼はお勝手の奥さんの方を向いて「あの人は何の用で来たんだつけね」ときいたが、何か間の悪い物音にさへぎられて奥さんの耳にとゞかないのを知ると、再び訊ねようとはしなかつた。
 雪が降つてきた。青々軒の家には傘が一本しかなかつたので、その傘で駅まで送つてくれたが、二ツの子供をおんぶして長靴をはいた青々軒の異様な姿は往来の人目を惹いた。一瞬憐れむやうな翳が走つたが、青々軒は困りきつた顔をして、
「あの人は善い人だがね、然し、君が深入りするほどの人ぢやないんだがな。やつれたぢやないか」
 太平は答へることができなかつた。すべてが再び暗闇へもどり、空転だけが感じられた。彼はいつか傘からハミだして雪にぬれて歩いてゐた。
「濡れてみたいのかい。アッハッハ」
 青々軒の瞳にも濡れたやうな小さな善良な愛情が光つてゐたが、それらが急に縁のない遠い彼方のものにしか思はれなくなつてゐた。
 ある朝、太平は何物かに押される力で庄吉を訪ねた。庄吉に会ひキミ子を貰ひたいといふだけの、気違ひじみた決意だけしか分からなかつたが、おう、よく来てくれたな、と庄吉が書生のやうな大声で現れてくると、鬱積したものが霧消して、彼の顔にも和やかな微笑が浮んだ。
「久しぶりに一戦やらうぢやないか」
 日当りの良い二階の廊下へ碁盤を持ちだして二人は向ひ合つたが、太平の心は碁盤をみると片意地に沈んで、再び重い鬱積がひろがつてゐた。庄吉は二目まで打込まれてゐたことを忘れず黒石を二つ並べたが、太平はしばらくその石を見つめてゐたのち、とりあげて庄吉の碁笥《ごけ》の中へ投げ入れた。そして思ひ決した顔を庄吉に振り向けようとしたが、すると同時に、碁盤の上をふッと庄吉の腕がのびて、両手が彼の喉首をしめつけてゐた。
「この野郎」
 庄吉の目は三白眼であつた。そして細い目であつた。その目がその時もやつぱり小さく、そして、まつしろに見えた。太平は抵抗してはいけないといふ厳しい声をきいたやうに思つたが、実際は、庄吉の手が急所を外れてゐることを意識しつゞけてゐたのであつた。庄吉はまつたく下手糞なやり方で夢中に太平の喉を突きあげた。
「この野郎! この野郎!
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