その日から太平の懊悩が始まつた。キミ子の肉体を失ふことが、これほどの虚しい苦痛であることを、どうして予期し得なかつたであらうか。夜更けの外套を思ひだすとき、太平の悔恨は悶絶的な苦悶に変るのであつた。あの夜更けキミ子はなぜ外套を着けはじめたのだらう? なぜ外套を脱がなかつたのだらう? 飛びついてきたキミ子は狂つた白痴のやうだつた。うつろであつた。泣いてゐた。キミ子のまつしろな肉体を思ひだすとき、それがいつか外套になり、外套を思ひだすとき、まつしろな肉体になるのであつた。訪れる夜ごとに眠れなくなり、暗闇が悔恨と苦悶にとざされてゐた。
 十日ほど経て庄吉からの手紙がきて、キミ子も待つてゐるから遊びに来いといふことが粉飾もなく書かれてゐた。その寛大な友情に太平は感動するのであつたが、その友情が極めて異常なものであり、庄吉の生活と性格が奇怪なものであることを、極めてかすかにしか意識してゐなかつた。舟木だの小夜太郎だの花村だの間瀬だの富永の顔をうそ寒い憎悪をこめて思ひ描くことはあつても、その憎悪と同じぐらゐの激しさで、庄吉の友情を裏切ることの切なさを嘆いたことは殆どない。太平の心は極めて自然に庄吉を黙殺してゐるばかりでなく、たぶん庄吉は愛人なしにゐられないキミ子の性情を知つてゐて、好ましくない男達の玩具になるより、自分の好む男と遊んでくれることを欲するために太平を選んだのであらうと考へてみたりするのであつた。その考へはうがち過ぎて厭だつたが、そんなことにもこだはる必要がなかつたほど彼は庄吉を忘れてゐた。そして庄吉の友情のこもつた手紙を読むと、その寛大さに涙ぐむほど感動しながら、庄吉に打ち開けてキミ子を正式に貰ひたいと思ひふけり、庄吉の悲痛なる人間苦を思ひやつてはゐなかつた。
 庄吉からキミ子を貰ひ受けたいといふ考へはだんだん激しくなるのであつた。けれども庄吉のことよりも、キミ子自身の返答に就いて考へると、絶望的になるのであつた。太平の甘い考へはキミ子自身を思ふたびに氷化して、永遠に突き放された思ひのために絶望した。
 太平は病者のやうに彷徨して、青々軒を訪れた。
 青々軒は過ぎ去つた話に就いては一語もふれず、たゞ、キミ子さんが昨日も来たぜ、今日も来たぜ、お午《ひる》ごろだつたね。それから一週間前ぐらゐにも二三度来てゐるんだ、といつた。それをきくと、見る見る眼前に一縷の光が流れこ
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