海の霧
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甃《いし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|何故《なにゆえ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]
−−

[#7字下げ]1[#「1」は中見出し]

 波の上に夜が落ちる。海に沿ふた甃《いし》の路に靄の深い街燈の薄明り、夜の暗色と一緒に、噎《むせ》つぽい磯の匂ひが、急にモヤモヤした液体のやうに、灯のある周囲《まわり》に浮きながら流れはじめる。ときどき、外国の船員《マドロス》が、影と言葉を置き去りにして、闇の中へ沈没しながら紛れてしまふ。
 黄昏が下りると、僕はこの路で、自分でも良くは知らない何か思案を反芻しながら、一日に一ぺんづつ家路を辿つた。鮎子も一ぺん家へ帰る。どの路をどんな顔貌《かおつき》で通つて来るのだか、駈けて来たやうに、いつも騒しく興奮してゐた。白ちやけた電燈の下で僕達の影が縺《もつ》れ、興醒めた白さが縺れ、くたびれた神経の罅《ひび》が、虚しい部屋の中で丁度氷の湯気のやうに、一つの柔らかい靄を殆んど幽かに醸しはじめる。僕は冷い水溜り、黙りこくつて片隅の机に頬杖をつきながら、街の灯《あかり》に薄く紅紅《あかあか》と映えてゐる潤んだ夜空に眺め入り、又その奥に何か震へる明日の心を探しはじめる、今日も畢《おわ》れり、と思ひながら……。
「指が痛むわ、治してよ。アア痛痛……ほんとだぜ、キミ」
 鮎子は時々指を痛めた。翌る夜は頭を、翌る夜は踵を、又翌る夜は齲歯《むしば》を、目を、肋骨を、肩を、耳を。鮎子は禿鷹の険しい眼差を光らせて敏捷に身構へながら、僕の油断を鋭く窺ふ。或時は窓に凭れて、半身を窓掛に潜ませながら、又或時は壁際に佇んで、少年の息差《いきざし》をはずませながら、又或時は部屋のさ中に長々と脚を投げ出して、膝と畳にふうわりとしたスカートの、高低のついた柔らかい半円形を描き出しながら。
「指が痛いんだといつたら……。揉んでお呉れつたら……。揉まないと噛みつくぞ」
 僕はお前の高い調子に乗ることが出来ない。僕はお前の指を揉みながら遠い太洋《わたつみ》を百年間も泳ぎ続けて来たやうな、長い疲れに襲はれてしまふ。お前は癇癪を起して僕の頭へ指を突き込む、お前はそれを掻き廻して、イヤといふ程僕を畳へ転がせてしまふ。それでも僕の長い泳ぎは、失はれた藻屑のやうにいつ止むものとも思はれない、僕は深深《ふかぶか》とした渦巻に酔ひ痴れながら、陥没する木屑のやうに、古い疲れで二つの眼瞼を閉ぢてしまふ。
「陰気坊主! お化け! 間抜け! 弱虫! 意地わる! 気狂ひ! トマト!」
 日本語の語彙《ボキャブラリイ》は、お前を一晩喋らせておく程豊富には作られてゐない、お前は癇癪で目を泣き腫らし、お前自身が分らなくなる、お前は咄嗟に稚児《おさなご》の心を決めて、爆弾のやうに僕の脾腹へ倒れて落ちる。お前はニヤニヤ笑ひながら、僕と平行に腹這ひに寝てすばやく僕の目の中へお前の笑顔を捩込んでしまふ。
「痛かつて?」
「痛くないこともなかつた」
「近頃健康はいいの……?」
「さう、悪くないこともないが……」
「今日も一日退屈して?……退屈しないこともなかつたのね。ねえ、あたし今日、いろんな事を考へたの……」
 そしてお前はニヤニヤしながら、「いろんな事」を思ひ出せずに探しあぐねて、時々そのまま寝込んでしまふ。僕の近頃は放心が深い、それからの永い夜、僕はお前の寝姿にさへ心付かずに、うつらうつらと物を思ふ、ときどき太く逞しく息を吸ひつつ……。ふとした夜の気配がして、僕は程経てお前の寝顔を発見する、僕は暫く呆然として、不思議に白々と広く虚しい部屋の隅々を見廻しはじめ、やうやく僕の存在と場所と時間に気付き乍ら今しがたお前の探しあぐねてゐた「いろんな事」を思ひ出す、何か不思議な拡がりを持つ胸の痛みと全く一緒に……。
 斯《こ》んな気まぐれな、だらけ切つた生活が、たとへば永劫に続くとしても、悔む心の萌すときは僕にあるまいと考へてゐた、僕の涯無い無気力は、すべて現実に順応することをのみ生き甲斐として、悩みを悩みとも思ふ時はあるまいとその頃僕は考へてゐた。だが、僕達の知らない場所に僕達の心があつて、その日頃ひそやかに成育を遂げ、もはや隠し切れないその決意を或日僕達に顕はした時、僕達は始めて実に驚愕した。――その話を僕は静かに物語りたい……

[#7字下げ]2[#「2」は中見出し]

 同じ悪夢が、夜毎《よごと》、氾濫した溝《どぶ》のやうに枕の下を流れて通る。酷い日は白つぽいドロドロの夜を、同じ悪夢で二度に三度に区切られてしまふ。もう悪夢にも退屈して、グショグショに濡れた朝稀に欠伸《あくび》が出るくらゐ、キナ臭い首を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]いでヂッと凝視めてゐるとタラタラと、二三滴の透明な液体が、変に美くしく掌へ零《こぼ》れて落ちた。昼は明るい、見渡せば水平線、真昼《まひる》海が動いて静かに蒼空を吐き出してゐる。僕も僕の湿り気を薄く真つ白い霧にして、静かに沖へ吐き出してしまふと、黴《かび》れた古い「昔」だけが、襤褸のやうにヒラヒラと、広い海風に戯れながら僕の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に張り付いて残つた。「昔」を負うて孤独《ひとり》の路を喘いでゐる僕は乾涸《ひか》らびた朽木のやうな侘びしさに溺れてしまふ。
 顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]に凍てついた古い昔の襤褸をほぐす、丁度あのノウノウとした反芻動物のやうに、僕はウラウラとした海岸のベンチや、たまさかに翳りの深い樹の下で、一つづつ食べ直すものの如くに襤褸をほぐすのが日課であつた。母を憎む扼腕《やくわん》の瞿曇《こども》(それも今は愛誦すべき聖典の類ひか――)、同じ少年を乗せて飴色の広野を走る汽車の窓、黄昏の紫陽花色の雲のさ中を長々と横ざまに這ふ一匹の小蟹が見える、何時の頃何処の記憶か知らないが、半ば崩れた白壁に一つ裸木の物倦げな影が、秋も深く闌《た》けてゐる、いろいろの顔やいろいろの女、古い埃に煤けほうけて沸沸と浮んで消える映像の中に、やはり鮎子の面影が黴に煤けて一瞬《ひととき》空を掠めて通る。昨日の心も、今朝の心も、恐らくは又明日の心も、遠い昔の面影と共に、みんな乾涸らびた思ひ出の匂ひに泌《し》みて僕の全ての現実はたとへば磯にゐて今追憶に耽ることさへ、それも亦古い幻の風景のやう、ゆらゆらと、風に孕まれて鈍い出帆の銅羅《どら》が鳴るが、それも亦思ひ出された夢の遠さに聴き取れてしまふ、うつらうつらと一握の砂を掬《むす》んで、指を洩る一条《ひとすじ》の煙を測る、ひもすがら同じ砂砂を幾度掬んで幾度零すか、何時の間《ま》に夜が落ちたか、潮《うしお》に濡れて僕はぼんやり家へ帰る。
 夜《よる》更けて、夜毎に僕は酒場へ通つた。僕の飲む酒はいつもコニャック。様様な苦心をして、チャラチャラと衣嚢《かくし》に弄《いろ》ふ数個の銀貨を、例外なしにみんなコニャックに代へてしまふ。古ぼけた記憶の中に目覚ましい幾つかの太陽があつた、僕の両肩に耳朶とスレスレの軌道を縫ふて忙しく明滅し、取り留めのない毎日が、同じ処に幾日を重ねて来たか、今日と昨日の識別《みさかい》も最早《もはや》着かない混乱が続いた。僕は時々上を見上げて、深くヂッと考へてみる。すると僕の考へが、急に僕の額から煙のやうに逃げ出してゆく、僕は空洞《カラッポ》の額のなかに、憔悴した僕の頬を、そればかり目瞼一杯に映してしまふ。
 それでゐて、僕の毎日は不思議に鋭く緊張してゐた。誰人の意志が又|何故《なにゆえ》にこの不思議な緊張を斯くまで僕に強ふるのか、それを僕は知ることが出来なかつた。知り得ることは、僕の意志では斯の緊張をどうすることも出来はしないといふ事ばかり、僕はただ、日毎に強く張り切つて行く、不思議に休む時もない震幅を感じ続けてばかりゐた。やがて或日、其の緊張に極点が来て止む無く緊張それ自身を破裂せしめる時がある、その時僕はどう成つて何処へ行くのか、それも僕には分らない。僕は毎日怒つたやうな、妙に切迫した怖い顔を結んで、極く稀に、ふとした機勢《はずみ》でしか笑ひ出すことが出来なかつた。誰の物とも思へない不思議に低い笑声が、僕の喉から可笑しなハズミで転げ出て行く、僕は慌てて口を開けるが、喉を駈け出る笑ひの煽りは北風のやうに冷く白い、壁に虚しく木霊した空洞《うつろ》な音はまるで凋んだ風船のやう、部屋の中空をフワフワと浮いて、閉ざし忘れた僕の口へ波紋を描いて戻つて来る、僕は頬つぺたを膨らませて、物も思はず、それをモクモク呑み干してしまふ。
 夜の酒場で、其処でも僕は、怒つたやうな顔貌《かおつき》を崩すことが出来なかつた。見知らない人達の多くの顔が正面の鏡に居流れて、強い体臭を放ちながらそれぞれの営みを示威してゐるが、近頃僕はそれらの顔に恐怖も羨望ももはや感じはしなかつた。骰子《ダイス》を振るマドロス、日本語を喋る日本人、絞るやうな笑ひ声、ときどき酒場一杯の喚声が、同じ不図したハズミによつて、鶏小屋のやうなケタタマシイ物音に蒸れたりするが、それでも僕は驚くばかり安心して、僕の孤独《ひとり》を噛みしめてゐる。親方《マスタア》が時々僕を慰めに来る、あきらめて、背中を向けて、行つてしまふが、それでも僕の安心は、海のやうにウラウラと深い。
 その頃、永い雨が降り続いてゐた、もう丁度二週間……。時々僕の額から、圧し潰された癇癪が、どす黒い雨雲になつて走り出す、窓から、煙る雨脚を眺めてゐたり眺めてゐなかつたりすると、腐りかけた脊髄を冷いものがタラタラと這ひ滴れて行く。そんな雨降りの毎日にも、僕は外出を止《や》めるわけにはゆかなかつた。この三月《みつき》僕は帽子を被らずに、杖を振り振り街を流れる、雨の日も傘や外套を僕は着けない、赤茶けた髪に風が騒ぎ、屑のやうに額に揺れ、僕の目に雨の滴《しずく》を差し落す、冷いものが襟に滲みる其の度に、僕は豪然と肩を聳やかして捩れた足の歩調を取つた。斯様なだらしない服装が僕の趣味だと言ふのではない、なぜだか、不図さうせずにはゐられない不思議な誰かと僕は一緒に住み慣れてゐた。
 雨の日に、矢張りボヤけた黄昏がきた、僕は殆んど無意識に湿つた洋服を着込んでしまふ。部屋も体躯も妙にドロドロと湿つぽい、そして黴れた玄関に、なぜだか僕はヒソヒソと靴を結んで立ち上ると、急にソワソワと白らけた不安がこみあげてくる、足や手が一度にイライラと騒ぎ初めて、ひたすらに収拾し難い混乱が一瞬《ときのま》僕を絶望へまで導いてしまふ。ふと幽かに、羽搏きに似た何か物音が、耳を澄せば棟の何処かに、繁くバタバタと聴え初める、暗い廊下の片隅に、たとへば濡れた壁の中から誰か知らない金切声が頻りに僕へ叫びはじめる。
「行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ……」
 僕は僅かに心を動かす、暫くは動かずにゐて、僕の黴た靴先へ潤んだ眼差を落しながら、冷えた自分の心臓へ、たとへば一から十の数へ、暫く計測の耳を澄ますが、やがて又、鈍く硬い心になつてフヤケた白色を呑み込んでしまふ。僕は項垂れて扉を開ける、扉を閉ぢる僅かな時に僕はチラリと空を偸《ぬす》む、寒々と白くぼやけた雨雲が僕の額に一杯煙る、死んでもいい、何処へ行くのだか知らないが、僕はとにかく出発しやう……僕は何んだか自棄まじりにイヤに大袈裟な決心をする、すると何んだか自棄まじりの熱い涙がこみあげさう……しかし僕は何も考へずに、だから別段泣き出しもせず、杖を振り振りただスタスタと雨の中へもぐり込む。

[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]

 僕達は、永い間、切札のやうに一つの言葉を用ひ合つた。「死にたくはないねえ……まだ、生きてゐたいよ、ねえ……」
 僕は本当に死にたくはなかつた。だから僕は斯の言葉をお前に話し掛ける時、そ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング