の時だけは莫迦のやうに安心して、妙に感慨を鎮めながら言ふのだつた。するとお前は、僕が狡猾に予想してゐたと全く同じに、お前も亦莫迦のやうに安心して、「ほんたうにさうよ、あたし、いつまでも生きてゐたいの……」と笑ひ出すのだ。その時お前は油ぎつた二つの目をキラキラと光らせながら、自分の感慨に溺れるやうに、肩を窄めて皺だらけの口元をしてしまふ。僕達は顔を見合はす、僕達は探り合ふ、そして僕達は、今僕達が純粋な真実ばかり述べ合つたことを相手の心へ押し付けやうと試みる、僕達はいそがはしく深い満足の笑ひ顔をつくり出すのだ。その笑顔を、長い間、僕達は疑ひの目で見直すことを怠つてゐた。僕達は笑ひ顔に馴れてゐない、そのために、下手な笑ひが変な虚構《みせかけ》に思はれるのだと想像し合つた。そして僕達の「死にたくない」心持は、僕達の下手な笑ひが虚構である場合にも、疑はるべきものではないと信じてゐた。そして若し、ある日僕が愚かにも「僕は死を怖れない」と述べたなら、お前は窓へ顔を背けて、潤んだ夜空に尖つた唇を隠しながら、堪へがたい可笑しさを紛らすやうに肩をゆすぶり、劇しい軽蔑を後姿に表はすであらう、恰も僕が濁つた夜の退屈に、ふと思ひ出して、「僕はお前を愛してゐない」と言ふ時のやうに。
お前の時間と、お前の気持が許しさへすれば、僕は毎日の幾時間をお前と居ても困ることは無かつたのだ。僕は何物にも溶けて紛れるヤクザな外皮を持つてゐた、そして又何物にも溶けやうとしない、一つの頑なな、沈殿物に悩まされてゐた。
僕達は、稀に波止場へ散歩に出掛けた。見送りの人波に紛れて、僕達は上甲板に、ゆるやかな午後を幾廻りかの散歩に費してゐた。賑やかな船の中にも密集地帯に一定の法則が行はれて、ときどき誰も通らない不思議な場所が隠されてゐた。其処では、細長い板敷の廊下が遠く遥かな海に展け、板壁の白いペンキが廊下と同じ長さに長い、紛れ込んだ人々にふとお饒舌《しゃべり》を噤ませてしまふ不思議な間抜けさが漂ふてゐた。又其処からは、海の形が画布の中の絵に見えた、僕達は軽くチョット笑ひ合ふ、それからかなり離れて欄干《てすり》に凭れ、銅羅が鳴るまでの長い間、足をブラブラさせながら、自分一人の海を見てゐる。
船が動く、海がひろびろとウシロに展ける、黒く蠢めく人波が、長い岩壁に、丁度立ち去つた汽船の長さだけ残る。それらは暫く動かない、ただ少数の人々が、立ち去る船とスレスレに並んで、船の歩調と同じ緩さに合はせながら、岩壁の突端まで、船を見上げて歩いて行く。僕達も船と一緒に歩きはじめる、しかし僕達は下を見て行く、下にテープがもう、寝腐れて藻屑のやう、そして僕達はそんなテープを跨ぎながら、妙に永く記憶に残る会話を交したね。
「えキミ、ボク達は生活を変へやうよ。キミがいつたい良くないんだもの――キミはあんまり乾いてる、ボクきらひ、ボクきらひよ……」
僕は返事をしなかつた、僕は当惑したやうな、ウルサクて困るやうな、苦笑ひを浮べながら、コツコツと、船と一緒に歩いてゐた、時々、わざと大袈裟に人の背中を避けたりしながら……。しかし僕は鮎子の言葉をハッキリと耳に残して歩いてゐた、そして狡るさうに投げかけたその愛くるしい眼差を反芻しながら、今にも叫び出したい興奮を危ふく苦笑ひに誤魔化してゐた。
「さうだ、僕達は生活を変へなければならない。そして僕達はモット充実した生活を暮さなければ……」
僕はかう答へたかつた、だが僕は其れを口には言ひ出さない、なぜならば、それを口にした瞬間に、愚かにも僕の目瞼に涙が光る、それを僕は予想することが出来たから。僕は僕の陰性な生活を、常にこれらの愚かな興奮に悩まされて来た、所詮脱け難い僕の陰鬱な生活に、ややともすれば溺れ易い、そして又醒め易い興奮が重い負担を永々と負はせた記憶は、思ひ出しても厭な気がする、その計算に怯える故、それ故僕は躊躇して、この興奮を紛らすわけでも又なかつた。僕はただ、長い長い習慣から、裏と表の組合せのやうに、僕の激しい、興奮をいつも苦笑に噛み潰してしまふ。
僕達は岩壁の突端に辿りついて、誰もゐない一隅に腰を下した。も一つの隅に、そこまでは船を追うて来た僅かばかりの人群れが、突端の石に爪先を立てて、尚それからも暫くは高々と手を振つてゐるが、やがてガッカリ肩を落して、一塊《ひとかたまり》づつ散つてしまふ、一人立ち去るその度に、広い海に囲まれて白々と鈍く輝やく岩壁の背がまるで零れた汚点《しみ》を抜くやう、遠い海風《うみかぜ》に吹き渡られて妙に侘しく漂白されるが、たうとう誰も見えなくなつた。
「アアアアア……」
僕達は、やうやくホッと息をして、表情の死んだ、板のやうな顔を見合はす、その顔を、二人は直ぐに逸らし合ふ、逸らす目の緩く流れた抛物線《パラボール》には、縹渺とした海の遠さが薄く一杯。二人は下の波を見る、波を伝ひに、だんだん遠い沖へ目をやる。船は港を出やうとして、やるせない程遅鈍な緩さに半廻転を試みてゐた。岩壁から長々と沖へ彎曲した太い航跡《ウエーキ》に泡も消えて、流されてゆく波紋の頭《かしら》に時々白い空が揺れた、小さな船が、広い航跡を横切つてゆく。
「アアア、あたし何処かへ飛んで行きたい、知らない国へ、ひとりぽつちで旅をしたいわ……」
「僕も何処かへ飛んできたいや……」
僕の大きな体躯から、自棄な溜息が漏れて落ちさう。僕はガックリ蒼空を見る、その瞬間をお前はまるで予期したやうにその時険しく僕を睨む、それも一瞬《ひととき》、お前は素早く瞳を逸らし、鈍く耀やく石畳へ棄て去るやうに其れを落す、お前は息を呑みながら小さく肩を聳やかし、劇しい軽蔑を強調しながら、ふと立ち上つて歩きはじめる。
「あたし何処かへ行きたいの……」
お前は再び小さな声で、同じ言葉を呟き直す、恰も僕の良心へその呟きを押しつけるやうに。そしてお前は急ぎはじめる、急ぐうちに僕のみ一人侘しく遠い岩壁に小《ち》さく残して、お前は白い石畳をだんだん早い速力で、ただ一条《ひとすじ》に駈けぬけて行く。
「お待ち……」
僕は危ふく言ひかけて、ハズミで息をゴクンと呑んだ、お前は其処にもう居ない、お前は小さく凋んでゆく、僕は暫く眺めてゐるが、やがて其処から目を逸らし、海を見て又空を見て、ながながと、欠伸をしたい気持になるのだ。しかし僕も立ち上る、疲れた体躯を一振りして、黙々と顔を伏せながら、お前の後を走りはじめる。僕は窶《やつ》れた豚のやう、皮膚の中では僕の体躯が、何か重たい荷物のやうに、無器用な音《ね》をゴトゴト立てて右と左に揺れてゐる、その震動を僕は数へ、時々海を偸み見ながら、長い岩壁をポクポクと駈けてゆく。
[#7字下げ]4[#「4」は中見出し]
永い雨の二週間、僕の奇妙な緊張は、不思議な速力で育ち初めてゐた。霖雨《ながあめ》のうちに、六月が過ぎて、やはり煙つた七月が来た。すると僕は、もはや六月の僕でなかつた。一日のうちに一日の推移を、二つの瞬間《とき》に二つの段階を、僕は明らかに感じ分けることが出来た、もうやがて破裂が近い……それはもう僕にとつては概念でない、今明確な感覚に耳を澄ませば、弛《たゆ》みなく震幅を増す跫音《あしおと》に、僕の胎内から聴きとれてしまふ。
破裂とは如何なる結果を意味するか、それが僕には分らない、生きるか死ぬか知らないが、僕の全ての「生命力」を打ち込んで何か一つをやらかしさう、そんな気持がしてならない。その結果、結局僕は死ぬのかも知れない、しかし僕は死にたくない、何故《なぜ》でも僕は生きてゐたい、僕はただ破裂してしまふだけ、それだけは厭でも僕に仕方がなかつた。破裂の結果が死であるなら、それはそれで止むを得ない、みじめな事ではあるけれども、それに怯えない心はあつた。その意味では、今僕は「死も怖れない」と言ふことが出来やう、そして其の意味で言へば、僕は今、僕の切札を変へてもよかつた、「僕は死にたくない、それでも僕は、死も怖くない……」
昔は僕は、午後の日和に、見送りの人波に紛れてコソコソと船に乗り込んだ、僕は豪奢な社交に酔つて、部屋の片隅に佇んだり、ある時高い人気ない場所に、遠く海へ撒かれてゆく僕の潤んだ哀愁を眺めたりした。僕は今、豪然として船に乗り込む、サロンの丁度中程の、僕は豪華な肱掛椅子に腰を埋めて、部屋の主人であるやうな傲慢無礼な様をしながら、銅羅の鳴るまで身動《みじろぎ》もしない。一人の旅人を取り囲んだ見送人の組組が、一ツ又一ツ僕の鼻先を往来し、稀には僕の肩のあたりに暫く群れて動かずに、ややあつて去る一団もあつた。ときたま二三の人々が僕の姿をふと見出して、咄嗟に声を落してしまふが、間もなく群の空気に紛れて、僕を忘れて行つてしまふ、僕はただ、笑ひもせずに、それを見てゐる。
僕の悪い風態が、時々僕を交番や、密行の刑事達に誰何《すいか》させた。僕はこれまで、交番を、穏やかな心持では通ることが出来なかつた。今は違ふ、西も東も同じ心で、一色の水を泳ぐやうに、僕はひたすら街を流れる。
霖雨《ながあめ》も終りに近い一日だつた、その日僕達は、東京へ行く電車に乗つた。僕達の正面に、常ならば僕に礼儀を強ふるであらう、綺麗な婦人が乗つてゐた。僕の体躯は雨でグッショリ、僕の心も亦そのやうに、気取る余裕はもう無かつた。杖の柄に僕は劇しく両肱を組み肱の上には不遜な肩を鋭く張つて、蟇《がま》の形にのめり出しながら、憎々しげに隅の一方を凝視めてゐた。故意ではないが、僕の目は、時々睨む形をつくつた、路傍に濡れた雨垂が、僕の顎から床板に滴れた。僕達は新橋で下車した。
「あんまりお行儀が悪いぢやないか、キミはあんまり――」
「大丈夫だ、大丈夫だ、俺はシッカリしてゐるのだ」
「何が大丈夫なもんか! キミも男なら、恥を知るものよ」
「ウン……俺は大丈夫なんだ――」
駅の屋根を出切るとき、鮎子は僕を置き去るやうに、激しく息を呑みながら、スタスタと雨脚の中へ駈け込んで行つた。僕は雨具の用意を持たない、僕はドシャ降りの煙を浴びて、鮎子の背筋を噛むやうに追ふた。
コイツ……僕は鮎子の襟頸を抑へ、劇しく顔を引き戻して、その顔イッパイに睨みつけてやりたいと思つた。僕は劇しく、イライラしながら、それでも怒りを圧し潰して、頬に伝ふ雨の滴《しずく》を甜めながら、酔ひ痴れたやうにダラシなく泥濘を歩いてゐた。暫くして鮎子は突然ふりむいた。
「キチガヒ!」
「バカ!」
お前はまるで皺だらけな、力の脱け切つた顔貌《かおつき》をして笑つた。その皺に、みんな一条《ひとすじ》、何か冷い液体が滲み出るやうな顔貌《かおつき》をしながら……。そしてお前は手を高々と延しながら、やうやくお前に追ひついた僕の体躯を覆ふやうにして、僕を傘に入れて呉れた。
「どうしたの?……近頃変よ、ネ、シッカリして……」
「俺は大丈夫なのだ……」
僕は長くボンヤリして、表情の死んだ顔貌《かおつき》をしてゐた。
それから、太陽のある夏が来た。
[#7字下げ]5[#「5」は中見出し]
その頃から、こと毎に、お前は僕を憎んだり、軽蔑したりしはじめた。それは時々、徒事《ただごと》でなかつた。
僕への深い尊敬の、逆な表現ではあるまいか、僕は時々さう考へた。それは有り得ることだつた、少くとも、お前は僕を怖れはじめてゐた。ヒョッとして――死にたがるのは、むしろお前ではなかつたのか、僕は時々さうも思つた。
僕はことさら肩を張り、傲然と高く杖を振り振り街を歩いた。お前は空を裂くやうに、鋭く街を渡つてゆく、時々お前の顔貌《かおつき》は金属性の狐のやうに、硬く冷く尖つて見えた。お前の肩に切られた風が、不思議に綺麗な切断面を迸しらせて、多彩な色と匂ひとで僕の首《うなじ》を包んでしまふ、僕はときたま噎せながら、不思議にそれを綺麗だと思つた。
――尊敬は恋愛の畢りなり。
この不思議な逆説を、間もなく僕達は経験した。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第九年第
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