の罅《ひび》が、虚しい部屋の中で丁度氷の湯気のやうに、一つの柔らかい靄を殆んど幽かに醸しはじめる。僕は冷い水溜り、黙りこくつて片隅の机に頬杖をつきながら、街の灯《あかり》に薄く紅紅《あかあか》と映えてゐる潤んだ夜空に眺め入り、又その奥に何か震へる明日の心を探しはじめる、今日も畢《おわ》れり、と思ひながら……。
「指が痛むわ、治してよ。アア痛痛……ほんとだぜ、キミ」
鮎子は時々指を痛めた。翌る夜は頭を、翌る夜は踵を、又翌る夜は齲歯《むしば》を、目を、肋骨を、肩を、耳を。鮎子は禿鷹の険しい眼差を光らせて敏捷に身構へながら、僕の油断を鋭く窺ふ。或時は窓に凭れて、半身を窓掛に潜ませながら、又或時は壁際に佇んで、少年の息差《いきざし》をはずませながら、又或時は部屋のさ中に長々と脚を投げ出して、膝と畳にふうわりとしたスカートの、高低のついた柔らかい半円形を描き出しながら。
「指が痛いんだといつたら……。揉んでお呉れつたら……。揉まないと噛みつくぞ」
僕はお前の高い調子に乗ることが出来ない。僕はお前の指を揉みながら遠い太洋《わたつみ》を百年間も泳ぎ続けて来たやうな、長い疲れに襲はれてしまふ。お前
前へ
次へ
全21ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング