癪が、どす黒い雨雲になつて走り出す、窓から、煙る雨脚を眺めてゐたり眺めてゐなかつたりすると、腐りかけた脊髄を冷いものがタラタラと這ひ滴れて行く。そんな雨降りの毎日にも、僕は外出を止《や》めるわけにはゆかなかつた。この三月《みつき》僕は帽子を被らずに、杖を振り振り街を流れる、雨の日も傘や外套を僕は着けない、赤茶けた髪に風が騒ぎ、屑のやうに額に揺れ、僕の目に雨の滴《しずく》を差し落す、冷いものが襟に滲みる其の度に、僕は豪然と肩を聳やかして捩れた足の歩調を取つた。斯様なだらしない服装が僕の趣味だと言ふのではない、なぜだか、不図さうせずにはゐられない不思議な誰かと僕は一緒に住み慣れてゐた。
雨の日に、矢張りボヤけた黄昏がきた、僕は殆んど無意識に湿つた洋服を着込んでしまふ。部屋も体躯も妙にドロドロと湿つぽい、そして黴れた玄関に、なぜだか僕はヒソヒソと靴を結んで立ち上ると、急にソワソワと白らけた不安がこみあげてくる、足や手が一度にイライラと騒ぎ初めて、ひたすらに収拾し難い混乱が一瞬《ときのま》僕を絶望へまで導いてしまふ。ふと幽かに、羽搏きに似た何か物音が、耳を澄せば棟の何処かに、繁くバタバタと聴え初める、暗い廊下の片隅に、たとへば濡れた壁の中から誰か知らない金切声が頻りに僕へ叫びはじめる。
「行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ……」
僕は僅かに心を動かす、暫くは動かずにゐて、僕の黴た靴先へ潤んだ眼差を落しながら、冷えた自分の心臓へ、たとへば一から十の数へ、暫く計測の耳を澄ますが、やがて又、鈍く硬い心になつてフヤケた白色を呑み込んでしまふ。僕は項垂れて扉を開ける、扉を閉ぢる僅かな時に僕はチラリと空を偸《ぬす》む、寒々と白くぼやけた雨雲が僕の額に一杯煙る、死んでもいい、何処へ行くのだか知らないが、僕はとにかく出発しやう……僕は何んだか自棄まじりにイヤに大袈裟な決心をする、すると何んだか自棄まじりの熱い涙がこみあげさう……しかし僕は何も考へずに、だから別段泣き出しもせず、杖を振り振りただスタスタと雨の中へもぐり込む。
[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]
僕達は、永い間、切札のやうに一つの言葉を用ひ合つた。「死にたくはないねえ……まだ、生きてゐたいよ、ねえ……」
僕は本当に死にたくはなかつた。だから僕は斯の言葉をお前に話し掛ける時、その時だけは莫迦のやうに安心して、妙に感慨を鎮めながら言ふのだつた。するとお前は、僕が狡猾に予想してゐたと全く同じに、お前も亦莫迦のやうに安心して、「ほんたうにさうよ、あたし、いつまでも生きてゐたいの……」と笑ひ出すのだ。その時お前は油ぎつた二つの目をキラキラと光らせながら、自分の感慨に溺れるやうに、肩を窄めて皺だらけの口元をしてしまふ。僕達は顔を見合はす、僕達は探り合ふ、そして僕達は、今僕達が純粋な真実ばかり述べ合つたことを相手の心へ押し付けやうと試みる、僕達はいそがはしく深い満足の笑ひ顔をつくり出すのだ。その笑顔を、長い間、僕達は疑ひの目で見直すことを怠つてゐた。僕達は笑ひ顔に馴れてゐない、そのために、下手な笑ひが変な虚構《みせかけ》に思はれるのだと想像し合つた。そして僕達の「死にたくない」心持は、僕達の下手な笑ひが虚構である場合にも、疑はるべきものではないと信じてゐた。そして若し、ある日僕が愚かにも「僕は死を怖れない」と述べたなら、お前は窓へ顔を背けて、潤んだ夜空に尖つた唇を隠しながら、堪へがたい可笑しさを紛らすやうに肩をゆすぶり、劇しい軽蔑を後姿に表はすであらう、恰も僕が濁つた夜の退屈に、ふと思ひ出して、「僕はお前を愛してゐない」と言ふ時のやうに。
お前の時間と、お前の気持が許しさへすれば、僕は毎日の幾時間をお前と居ても困ることは無かつたのだ。僕は何物にも溶けて紛れるヤクザな外皮を持つてゐた、そして又何物にも溶けやうとしない、一つの頑なな、沈殿物に悩まされてゐた。
僕達は、稀に波止場へ散歩に出掛けた。見送りの人波に紛れて、僕達は上甲板に、ゆるやかな午後を幾廻りかの散歩に費してゐた。賑やかな船の中にも密集地帯に一定の法則が行はれて、ときどき誰も通らない不思議な場所が隠されてゐた。其処では、細長い板敷の廊下が遠く遥かな海に展け、板壁の白いペンキが廊下と同じ長さに長い、紛れ込んだ人々にふとお饒舌《しゃべり》を噤ませてしまふ不思議な間抜けさが漂ふてゐた。又其処からは、海の形が画布の中の絵に見えた、僕達は軽くチョット笑ひ合ふ、それからかなり離れて欄干《てすり》に凭れ、銅羅が鳴るまでの長い間、足をブラブラさせながら、自分一人の海を見てゐる。
船が動く、海がひろびろとウシロに展ける、黒く蠢めく人波が、長い岩壁に、丁度立ち去つた汽船の長さだけ残る。それらは暫く動かない、
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