ただ少数の人々が、立ち去る船とスレスレに並んで、船の歩調と同じ緩さに合はせながら、岩壁の突端まで、船を見上げて歩いて行く。僕達も船と一緒に歩きはじめる、しかし僕達は下を見て行く、下にテープがもう、寝腐れて藻屑のやう、そして僕達はそんなテープを跨ぎながら、妙に永く記憶に残る会話を交したね。
「えキミ、ボク達は生活を変へやうよ。キミがいつたい良くないんだもの――キミはあんまり乾いてる、ボクきらひ、ボクきらひよ……」
 僕は返事をしなかつた、僕は当惑したやうな、ウルサクて困るやうな、苦笑ひを浮べながら、コツコツと、船と一緒に歩いてゐた、時々、わざと大袈裟に人の背中を避けたりしながら……。しかし僕は鮎子の言葉をハッキリと耳に残して歩いてゐた、そして狡るさうに投げかけたその愛くるしい眼差を反芻しながら、今にも叫び出したい興奮を危ふく苦笑ひに誤魔化してゐた。
「さうだ、僕達は生活を変へなければならない。そして僕達はモット充実した生活を暮さなければ……」
 僕はかう答へたかつた、だが僕は其れを口には言ひ出さない、なぜならば、それを口にした瞬間に、愚かにも僕の目瞼に涙が光る、それを僕は予想することが出来たから。僕は僕の陰性な生活を、常にこれらの愚かな興奮に悩まされて来た、所詮脱け難い僕の陰鬱な生活に、ややともすれば溺れ易い、そして又醒め易い興奮が重い負担を永々と負はせた記憶は、思ひ出しても厭な気がする、その計算に怯える故、それ故僕は躊躇して、この興奮を紛らすわけでも又なかつた。僕はただ、長い長い習慣から、裏と表の組合せのやうに、僕の激しい、興奮をいつも苦笑に噛み潰してしまふ。
 僕達は岩壁の突端に辿りついて、誰もゐない一隅に腰を下した。も一つの隅に、そこまでは船を追うて来た僅かばかりの人群れが、突端の石に爪先を立てて、尚それからも暫くは高々と手を振つてゐるが、やがてガッカリ肩を落して、一塊《ひとかたまり》づつ散つてしまふ、一人立ち去るその度に、広い海に囲まれて白々と鈍く輝やく岩壁の背がまるで零れた汚点《しみ》を抜くやう、遠い海風《うみかぜ》に吹き渡られて妙に侘しく漂白されるが、たうとう誰も見えなくなつた。
「アアアアア……」
 僕達は、やうやくホッと息をして、表情の死んだ、板のやうな顔を見合はす、その顔を、二人は直ぐに逸らし合ふ、逸らす目の緩く流れた抛物線《パラボール》には、縹渺とした海の遠さが薄く一杯。二人は下の波を見る、波を伝ひに、だんだん遠い沖へ目をやる。船は港を出やうとして、やるせない程遅鈍な緩さに半廻転を試みてゐた。岩壁から長々と沖へ彎曲した太い航跡《ウエーキ》に泡も消えて、流されてゆく波紋の頭《かしら》に時々白い空が揺れた、小さな船が、広い航跡を横切つてゆく。
「アアア、あたし何処かへ飛んで行きたい、知らない国へ、ひとりぽつちで旅をしたいわ……」
「僕も何処かへ飛んできたいや……」
 僕の大きな体躯から、自棄な溜息が漏れて落ちさう。僕はガックリ蒼空を見る、その瞬間をお前はまるで予期したやうにその時険しく僕を睨む、それも一瞬《ひととき》、お前は素早く瞳を逸らし、鈍く耀やく石畳へ棄て去るやうに其れを落す、お前は息を呑みながら小さく肩を聳やかし、劇しい軽蔑を強調しながら、ふと立ち上つて歩きはじめる。
「あたし何処かへ行きたいの……」
 お前は再び小さな声で、同じ言葉を呟き直す、恰も僕の良心へその呟きを押しつけるやうに。そしてお前は急ぎはじめる、急ぐうちに僕のみ一人侘しく遠い岩壁に小《ち》さく残して、お前は白い石畳をだんだん早い速力で、ただ一条《ひとすじ》に駈けぬけて行く。
「お待ち……」
 僕は危ふく言ひかけて、ハズミで息をゴクンと呑んだ、お前は其処にもう居ない、お前は小さく凋んでゆく、僕は暫く眺めてゐるが、やがて其処から目を逸らし、海を見て又空を見て、ながながと、欠伸をしたい気持になるのだ。しかし僕も立ち上る、疲れた体躯を一振りして、黙々と顔を伏せながら、お前の後を走りはじめる。僕は窶《やつ》れた豚のやう、皮膚の中では僕の体躯が、何か重たい荷物のやうに、無器用な音《ね》をゴトゴト立てて右と左に揺れてゐる、その震動を僕は数へ、時々海を偸み見ながら、長い岩壁をポクポクと駈けてゆく。

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 永い雨の二週間、僕の奇妙な緊張は、不思議な速力で育ち初めてゐた。霖雨《ながあめ》のうちに、六月が過ぎて、やはり煙つた七月が来た。すると僕は、もはや六月の僕でなかつた。一日のうちに一日の推移を、二つの瞬間《とき》に二つの段階を、僕は明らかに感じ分けることが出来た、もうやがて破裂が近い……それはもう僕にとつては概念でない、今明確な感覚に耳を澄ませば、弛《たゆ》みなく震幅を増す跫音《あしおと》に、僕の胎内から聴きとれてし
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