まふ。
 破裂とは如何なる結果を意味するか、それが僕には分らない、生きるか死ぬか知らないが、僕の全ての「生命力」を打ち込んで何か一つをやらかしさう、そんな気持がしてならない。その結果、結局僕は死ぬのかも知れない、しかし僕は死にたくない、何故《なぜ》でも僕は生きてゐたい、僕はただ破裂してしまふだけ、それだけは厭でも僕に仕方がなかつた。破裂の結果が死であるなら、それはそれで止むを得ない、みじめな事ではあるけれども、それに怯えない心はあつた。その意味では、今僕は「死も怖れない」と言ふことが出来やう、そして其の意味で言へば、僕は今、僕の切札を変へてもよかつた、「僕は死にたくない、それでも僕は、死も怖くない……」
 昔は僕は、午後の日和に、見送りの人波に紛れてコソコソと船に乗り込んだ、僕は豪奢な社交に酔つて、部屋の片隅に佇んだり、ある時高い人気ない場所に、遠く海へ撒かれてゆく僕の潤んだ哀愁を眺めたりした。僕は今、豪然として船に乗り込む、サロンの丁度中程の、僕は豪華な肱掛椅子に腰を埋めて、部屋の主人であるやうな傲慢無礼な様をしながら、銅羅の鳴るまで身動《みじろぎ》もしない。一人の旅人を取り囲んだ見送人の組組が、一ツ又一ツ僕の鼻先を往来し、稀には僕の肩のあたりに暫く群れて動かずに、ややあつて去る一団もあつた。ときたま二三の人々が僕の姿をふと見出して、咄嗟に声を落してしまふが、間もなく群の空気に紛れて、僕を忘れて行つてしまふ、僕はただ、笑ひもせずに、それを見てゐる。
 僕の悪い風態が、時々僕を交番や、密行の刑事達に誰何《すいか》させた。僕はこれまで、交番を、穏やかな心持では通ることが出来なかつた。今は違ふ、西も東も同じ心で、一色の水を泳ぐやうに、僕はひたすら街を流れる。
 霖雨《ながあめ》も終りに近い一日だつた、その日僕達は、東京へ行く電車に乗つた。僕達の正面に、常ならば僕に礼儀を強ふるであらう、綺麗な婦人が乗つてゐた。僕の体躯は雨でグッショリ、僕の心も亦そのやうに、気取る余裕はもう無かつた。杖の柄に僕は劇しく両肱を組み肱の上には不遜な肩を鋭く張つて、蟇《がま》の形にのめり出しながら、憎々しげに隅の一方を凝視めてゐた。故意ではないが、僕の目は、時々睨む形をつくつた、路傍に濡れた雨垂が、僕の顎から床板に滴れた。僕達は新橋で下車した。
「あんまりお行儀が悪いぢやないか、キミはあんまり――」
「大丈夫だ、大丈夫だ、俺はシッカリしてゐるのだ」
「何が大丈夫なもんか! キミも男なら、恥を知るものよ」
「ウン……俺は大丈夫なんだ――」
 駅の屋根を出切るとき、鮎子は僕を置き去るやうに、激しく息を呑みながら、スタスタと雨脚の中へ駈け込んで行つた。僕は雨具の用意を持たない、僕はドシャ降りの煙を浴びて、鮎子の背筋を噛むやうに追ふた。
 コイツ……僕は鮎子の襟頸を抑へ、劇しく顔を引き戻して、その顔イッパイに睨みつけてやりたいと思つた。僕は劇しく、イライラしながら、それでも怒りを圧し潰して、頬に伝ふ雨の滴《しずく》を甜めながら、酔ひ痴れたやうにダラシなく泥濘を歩いてゐた。暫くして鮎子は突然ふりむいた。
「キチガヒ!」
「バカ!」
 お前はまるで皺だらけな、力の脱け切つた顔貌《かおつき》をして笑つた。その皺に、みんな一条《ひとすじ》、何か冷い液体が滲み出るやうな顔貌《かおつき》をしながら……。そしてお前は手を高々と延しながら、やうやくお前に追ひついた僕の体躯を覆ふやうにして、僕を傘に入れて呉れた。
「どうしたの?……近頃変よ、ネ、シッカリして……」
「俺は大丈夫なのだ……」
 僕は長くボンヤリして、表情の死んだ顔貌《かおつき》をしてゐた。

 それから、太陽のある夏が来た。

[#7字下げ]5[#「5」は中見出し]

 その頃から、こと毎に、お前は僕を憎んだり、軽蔑したりしはじめた。それは時々、徒事《ただごと》でなかつた。
 僕への深い尊敬の、逆な表現ではあるまいか、僕は時々さう考へた。それは有り得ることだつた、少くとも、お前は僕を怖れはじめてゐた。ヒョッとして――死にたがるのは、むしろお前ではなかつたのか、僕は時々さうも思つた。
 僕はことさら肩を張り、傲然と高く杖を振り振り街を歩いた。お前は空を裂くやうに、鋭く街を渡つてゆく、時々お前の顔貌《かおつき》は金属性の狐のやうに、硬く冷く尖つて見えた。お前の肩に切られた風が、不思議に綺麗な切断面を迸しらせて、多彩な色と匂ひとで僕の首《うなじ》を包んでしまふ、僕はときたま噎せながら、不思議にそれを綺麗だと思つた。

 ――尊敬は恋愛の畢りなり。
 この不思議な逆説を、間もなく僕達は経験した。



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第九年第
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