もう悪夢にも退屈して、グショグショに濡れた朝稀に欠伸《あくび》が出るくらゐ、キナ臭い首を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]いでヂッと凝視めてゐるとタラタラと、二三滴の透明な液体が、変に美くしく掌へ零《こぼ》れて落ちた。昼は明るい、見渡せば水平線、真昼《まひる》海が動いて静かに蒼空を吐き出してゐる。僕も僕の湿り気を薄く真つ白い霧にして、静かに沖へ吐き出してしまふと、黴《かび》れた古い「昔」だけが、襤褸のやうにヒラヒラと、広い海風に戯れながら僕の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に張り付いて残つた。「昔」を負うて孤独《ひとり》の路を喘いでゐる僕は乾涸《ひか》らびた朽木のやうな侘びしさに溺れてしまふ。
 顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]に凍てついた古い昔の襤褸をほぐす、丁度あのノウノウとした反芻動物のやうに、僕はウラウラとした海岸のベンチや、たまさかに翳りの深い樹の下で、一つづつ食べ直すものの如くに襤褸をほぐすのが日課であつた。母を憎む扼腕《やくわん》の瞿曇《こども》(それも今は愛誦すべき聖典の類ひか――)、同じ少年を乗せて飴色の広野を走る汽車の窓、黄昏の紫陽花色の雲のさ中を長々と横ざまに這ふ一匹の小蟹が見える、何時の頃何処の記憶か知らないが、半ば崩れた白壁に一つ裸木の物倦げな影が、秋も深く闌《た》けてゐる、いろいろの顔やいろいろの女、古い埃に煤けほうけて沸沸と浮んで消える映像の中に、やはり鮎子の面影が黴に煤けて一瞬《ひととき》空を掠めて通る。昨日の心も、今朝の心も、恐らくは又明日の心も、遠い昔の面影と共に、みんな乾涸らびた思ひ出の匂ひに泌《し》みて僕の全ての現実はたとへば磯にゐて今追憶に耽ることさへ、それも亦古い幻の風景のやう、ゆらゆらと、風に孕まれて鈍い出帆の銅羅《どら》が鳴るが、それも亦思ひ出された夢の遠さに聴き取れてしまふ、うつらうつらと一握の砂を掬《むす》んで、指を洩る一条《ひとすじ》の煙を測る、ひもすがら同じ砂砂を幾度掬んで幾度零すか、何時の間《ま》に夜が落ちたか、潮《うしお》に濡れて僕はぼんやり家へ帰る。
 夜《よる》更けて、夜毎に僕は酒場へ通つた。僕の飲む酒はいつもコニャック。様様な苦心をして、チャラチャラと衣嚢《かくし》に弄《いろ》ふ数個の銀貨を、例外なしにみんなコニャックに代へてしまふ。古ぼけた記憶の中に目覚ましい幾つかの太陽があつた、僕の両肩に耳朶とスレスレの軌道を縫ふて忙しく明滅し、取り留めのない毎日が、同じ処に幾日を重ねて来たか、今日と昨日の識別《みさかい》も最早《もはや》着かない混乱が続いた。僕は時々上を見上げて、深くヂッと考へてみる。すると僕の考へが、急に僕の額から煙のやうに逃げ出してゆく、僕は空洞《カラッポ》の額のなかに、憔悴した僕の頬を、そればかり目瞼一杯に映してしまふ。
 それでゐて、僕の毎日は不思議に鋭く緊張してゐた。誰人の意志が又|何故《なにゆえ》にこの不思議な緊張を斯くまで僕に強ふるのか、それを僕は知ることが出来なかつた。知り得ることは、僕の意志では斯の緊張をどうすることも出来はしないといふ事ばかり、僕はただ、日毎に強く張り切つて行く、不思議に休む時もない震幅を感じ続けてばかりゐた。やがて或日、其の緊張に極点が来て止む無く緊張それ自身を破裂せしめる時がある、その時僕はどう成つて何処へ行くのか、それも僕には分らない。僕は毎日怒つたやうな、妙に切迫した怖い顔を結んで、極く稀に、ふとした機勢《はずみ》でしか笑ひ出すことが出来なかつた。誰の物とも思へない不思議に低い笑声が、僕の喉から可笑しなハズミで転げ出て行く、僕は慌てて口を開けるが、喉を駈け出る笑ひの煽りは北風のやうに冷く白い、壁に虚しく木霊した空洞《うつろ》な音はまるで凋んだ風船のやう、部屋の中空をフワフワと浮いて、閉ざし忘れた僕の口へ波紋を描いて戻つて来る、僕は頬つぺたを膨らませて、物も思はず、それをモクモク呑み干してしまふ。
 夜の酒場で、其処でも僕は、怒つたやうな顔貌《かおつき》を崩すことが出来なかつた。見知らない人達の多くの顔が正面の鏡に居流れて、強い体臭を放ちながらそれぞれの営みを示威してゐるが、近頃僕はそれらの顔に恐怖も羨望ももはや感じはしなかつた。骰子《ダイス》を振るマドロス、日本語を喋る日本人、絞るやうな笑ひ声、ときどき酒場一杯の喚声が、同じ不図したハズミによつて、鶏小屋のやうなケタタマシイ物音に蒸れたりするが、それでも僕は驚くばかり安心して、僕の孤独《ひとり》を噛みしめてゐる。親方《マスタア》が時々僕を慰めに来る、あきらめて、背中を向けて、行つてしまふが、それでも僕の安心は、海のやうにウラウラと深い。
 その頃、永い雨が降り続いてゐた、もう丁度二週間……。時々僕の額から、圧し潰された癇
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