るのみだつた。彼は執拗に和尚の祈祷を懇願した。
「定命はこれ定命で厶る。一切空と観じ、雑念あつては、成仏なり申さぬぞ」
 和尚の答へは、いつもながら、それだけだつた。傍に瀕死の病人もなきが如く、ひねもす禅定三昧であつた。その大いなる趺坐《ふざ》僧の姿は、山寨《さんさい》を構へて妖術を使ふ蝦蟇のやうに物々しく取澄して、とりつく島もない思ひをさせた。
 さりとて病状は一途に悪化を辿るばかりで、人力の施す術も見えないので、附添ひの男は、暇あるたびに、坐禅三昧の和尚の膝をゆさぶつて、法力の試みを懇請するほかに智慧の浮かぶゆとりはなかつた。ゆさぶる膝の手応へは太根を張つた大松の木の瘤かと思はれるばかり、なかなか微動を揺りだすことも絶望に見える有様であつた。
「生者は必滅のならひ。執着して、徒らに往生の素懐を乱さるるな」
 和尚は俗人の執念を厭悪するものの如く、ときに不興をあらはして、言つた。さうして、膝をゆさぶられても、半眼をひらかうとすらしなかつた。
 然し、和尚の顔色も、病者の悪化に競ひ立つて、日に日に光沢を失ひ、その逞しげな全身に、なんとなく衰への気が漂つた。
 春がきて、巡業の一行が再び草庵へ戻つたとき、すでに病人は臨終を待つばかりであつた。人々は不幸な友の枕頭に凝坐して、悲嘆にくれたが、もとより人の思ひによつて消える命が取戻せようものではなかつた。
 草庵の裏山に眺望ひらけた中腹の平地を探しもとめて、涙ながらに友のなきがらを葬つた。回向、引導も型の如くに執り行つたが、和尚の顔色は益々勝れず、土気色のむくみを表はし、眉間の憂悶は隠しもあへず、全身衰微の色深く、歩く足にも力失せがちな有様がただならなかつた。
 一座の長が進みでて、一様ならぬ長逗留の不始末を詫び、回向の労を深謝したとき、和尚が言つた。
「されば、善根、回向は比丘のつとめ。ましてこの身は見られる如く世を捨てた沙門、お礼のことはひらに要り申さぬ。ただ、お言葉ゆゑ、所望いたしてよろしいものなら、なにとぞ、一念発起の心根をあはれみ、塵労断ちがたい鈍根の青道心に劬《いた》はりを寄せ給ひて、俗世の風が解脱の障擬とならぬやう、なるべく早う拙僧ひとりにさせて下されたい」
 語る言葉にも力なく息苦しげであつた。
 人々は俄かに興ざめ、遺品などとりまとめるにも心せかせて、いとまを告げたが、それを待つ間ももどかしげな和尚の様子に、ほとほと厭気さすばかりであつた。
 人々がものの三四十間も歩いたころ、うしろに奇異な大音響が湧き起つた。低く全山の地肌を這ひわたる幅のひろいその音響を耳にしたとき、すでに人々の踏む足は自ら七八寸あまり宙に浮き、丹田に力の限り籠めてみても、音の自然に消え絶えるまで、再び土を踏むことができなかつた。
 驚いて、草庵の方を振返ると、和尚は柱に縋りつき、呼吸は荒々しくその肩をふるはせてゐた。
 再び大音響を耳にしたとき、和尚の法衣は天に向つて駈け去るが如く、裾は高々と空間に張りひろがり、人々の足は自然に踏む土を失つて、再び宙に浮いてゐた。

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庵寺《あんでら》の屁つこき坊主はの
山の粉雪も黄色にそめ
春のさかりに紅葉もさかせ
おないぶつに尻《けつ》向けて罰《ばち》当りとは面妖な
仏様も金びかりなら
   目出度い 目出度い
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 あるとき、和尚に依頼の筋があつて、草庵を訪ねた村人があつた。
 訪ふまでもなく、坐禅三昧の和尚の姿が、まる見えであつた。
「お頼み申します」
 と、訪客は和尚の後姿に向つて、慎しみ深く訪ひを通じた。趺坐の和尚に微動もなく、返事もなかつた。四たび、五たび、訪客は次第に声を高らかにして、同じ訪ひを繰返したが、さながら木像に物言ふ如く、さらに手応への気配がなかつた。
 さて、所在もなさに見廻せば、すでに屋根は傾いて、所々に隙間をつくり、また大空ののぞけて見える孔もあつた。雨の降る日は傘さしても間に合ふまいと思ひやられるのもことはり、畳はすでに苔むすばかりの有様であつた。長虫は処を得て這ひまはり、また翅虫《はむし》は澱みを幸ひ湧きむらがつて、人の棲家とも思へなかつた。さては和尚も苔むしたかと思はれるほど、その逞しく巨大な姿は谷底に崛起《くつき》する岩石めき、まるまると盛りあがる額も頬も、垢にすすけて、黒々と岩肌の光沢を放つばかりであつた。
 訪客は縁先ににぢり寄つた。
「もし、和尚さま」
 首を突き入れて、三たび、四たび繰返したが、声の通じた様子もなかつた。
 たまりかねて、濡縁へ片膝をつき、這ひこむばかりの姿勢となつて、片腕を延して和尚の背中を揺らうとした。
「もし。和尚さま」
 矢庭に彼はもんどり打つて、土の上にころがつてゐた。彼はそのとき、今のさつき目に見たことが、如何様に工夫しても、呑みこみかねる有
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