やらうめ)!」
 雲水の僧は矢庭《やにわ》に躍りかかつて、弁兆の口中へ燠を捩ぢ込むところであつた。弁兆は飛鳥の如くに身をひるがへして逃げてゐた。そのまま逐電して、再び行方は知れなかつた。

 雲水の僧は住持となつた。人|称《よ》んで呑火和尚と云つた。即ち団九郎狸であつた。懈怠《けたい》を憎み、ひたすら見性《けんしよう》成仏を念じて坐禅三昧に浸り、時に夜もすがら仏像を刻んで静寂な孤独を満喫した。
 村に久次といふしれものがあつた。大青道心の坐禅三昧を可笑しがり、法話の集ひのある夕辺、庫裏へ忍び、和尚の食餌へやたらと砥粉《とのこ》をふりまいておいた。砥粉をくらへば止めようと欲してもおのづと放屁して止める術がないといふ俗説があるのださうな。
 果して和尚は、開口一番、放屁の誘惑に狼狽した。臍下丹田に力を籠めれば、放屁の音量を大にするばかりであり、丹田の力をぬけば、心気顛倒して為すところを失ふばかりであつた。
「しばらく誦経致さう」
 和尚は腹痛を押へてやをら立上り、木魚の前に端坐した。優婆塞優婆夷《うばそくうばい》の合唱にかくれて、ひそかに始末する魂胆であつた。そこで先づ試みに一微風を漏脱したところ、ことごとく思量に反して、あとはもはや大流風の思ふがままの奔出を防ぎかける手段《てだて》もなかつた。大風笛は高天井に木魂して、人々がこれを怪しみ誦経の声を呑んだ時には、転出する円凹様々な風声のみが大小高低の妙を描きだすばかりであつた。臭気堂に満ちて、人々は思はず鼻孔に袖を当て、ひとりの立上る気配を知ると、我先きに堂を逃れた。
 釈迦牟尼成道の時にも降魔のことがあつた。正法には必ず障礙のあるもの。放屁を抑へようとして四苦八苦するのも未だ法を会得すること遠きがゆゑであり、放屁の漏出に狼狽して為すところを忘れるのも未だ全機透脱して大自在を得る底《てい》の妙覚に到らざるがゆゑである。即ち透脱して大解脱を得たならば、拈花《ねんげ》も放屁も同一のものであるに相違ない。静夜端坐して、団九郎はかく観じた。
 それにつけても、俗人の済度しがたいことを嘆いて、人里から一里ばかり山奥に庵を結び、遁世して禅定三昧に没入した。

 冬がきて、田舎役者の一行がこの草庵を通りかかつた。
 雪国の農夫達は冬毎にその故里の生業を失ひ、雪解けの頃まで他郷へ稼ぎにでかけるのが昔からの習ひであつた。部落によつて、あるひは灘伊丹の酒男、あるひは江戸の奉公と様々であるが、所によつては、越後獅子の部落もあり、村廻りの神楽狂言芝居等を伝承するところもあつた。もとより正業は農であるが、副業も亦概ね世襲で、現今も尚このあたりには冬毎に芝居を巡業する部落がある。丈余の雪上に舞台を設へ、観客も亦雪原に筵をしき、持参の重箱をひらいて酒をのみながら見物する。木戸として特に規定の金額がないから、金銭を支払ふ者は甚だ稀で、通例米味噌野菜酒等を木戸銭に代へ、一族ひきつれて観覧にあつまる。演者はただひたすらに芝居を楽しむといふ風で、寒気厳烈の雪原とはいへさながらに春風駘蕩、「三年さきに勘平の男前の若い衆はどうなすつたね。女の子が夢中になつたものだつたが、達者かね」「あの野郎は嬶《かかあ》をもらつて、今年は休ましてもらひますだとの」などいふ会話が幕の間に舞台の上下で交はされる。座長と見える老爺など終生水呑百姓の見るからに武骨そのものの骨柄であるが、巧みに女形をしこなして優美哀切を極め、涙の袖をしぼらせること、いつの年も変りがないといふことである。
 折から一行のひとりに病人ができた。通りかかつた草庵をこれ幸ひに無心して病人を担ぎ入れたが、翌日も、また翌日も、はかばかしくいかない。先を急ぐ旅のこととて、ひとりの附添ひを置き残して一座の者は立去つた。
 病人は暮方から熱が高まり、夜は悪夢にうなされて譫言《うわごと》を言ひ、屡々水をもとめた。明方に漸く寝しづまるのが例であつた。附添の男は和尚に祈祷を懇願した。同村の某が同じやうな高熱に悩んだとき、真言の僧に祈祷を受け、※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]摩耶底連《おんまやてれん》の札を水にうつしていただいたところ、翌日は熱も落ちて本復したことを思ひだしたのであつた。
「拙僧は左様な法力を会得した生きぼとけでは厶《ござ》らぬ」と和尚は答へた。「見られる通り俗世間を遁れ、一念解脱を発起した鈍根の青道心で厶る。死生を大悟し、即心即仏非心非仏に到らんことを欲しながら、妄想尽きず、見透するところ甚だ浅薄な、一尿床の鬼子(寝小便垂れ小僧)とは即ちこの坊主がこと。加持祈祷は思ひもより申さぬ」と受けつける気配もなかつた。
 病人は日毎に衰へ、すでに起居も不自由であつた。頻りに故里の土を恋しがり、また人々をなつかしんだ。その音声も日を経るごとに力なく、附添ひの友の嘆きを深くさせ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング