勇躍してお願いに上った次第です。軍医学校の全能力をあげて検査に当ったなら、いかなる医大の全能力も遠く足もとへ及ばない大成果を上げるに相違ありません。なにとぞこの願いをいれて、流行性肝臓炎の研究に当っていただきたいものです」
 と、誠意をヒレキして申出たのである。
 それに対する軍医部長の返答は、威丈高に先生を睨みすくめて、ただ一言、
「検査はできるだけ厳重にします」
 叩きつけるように、言いきっただけであった。何事か期するところがあるらしく、今にみろ、夜逃げ同様ここに居られなくしてやるから、と底に薄気味の悪い勝利の確信をただよわせている。
 先生は呆気にとられて、ひきさがらざるを得なかった。
 かくて軍医達は寝てもさめても検便又検便、いそがしいのは衛生兵、鼻をつまんで便をとり、便をあつめて、毎日の二番列車でせッせと東京の軍医学校へ運んで検査する。これをつづけること五十余日。ついにチフス菌は現れなかった。軍の威信をもってしても、健全なる人体からチフス菌をとりだすことは不可能だという平凡な事実が証明されただけである。おかげで肝臓先生は夜逃げしたり、牢屋へブチこまれずにすんだ。
 ところが軍との悪因縁はどこまでも附きまとう。
 先生の無二の心の友であった老いたる女傑が、軍を恨んで自殺して果てたのである。この女傑は蔦づるという待合の女将で、先生の為人《ひととなり》を知り、これを遇すること最も厚い人であった。
 肝臓医者とさげすみをうけることこそ、先生の栄光であることを、彼女は最もよく知っていたのだ。先覚者の悲劇である。また、予言者の宿命でもある。真理を知るものは常に孤絶して、イバラの道を歩かねばならないのだ。
 二人は茶の友であり、又、詩歌の友でもあった。
 彼女は豪腹であったから、敵も多かった。彼女を密告する者があった。B二十九が通るたび、物干へでゝハンケチをふって合図しているというのである。
 彼女は憲兵隊へ呼びだしをうけた。身の覚えのないことであるから、疑いは晴れたが、怒り心頭に発してその無礼を咎める彼女に向って、憲兵の親玉はセセラ笑い、キサマのようなロクでもない商売で金をもうける奴は、国賊だ、サッサと死んでしまえ、と怒鳴りつけたのである。
 最も熱烈な愛国者の一人であった女将の痛憤や、いかに。身にうけた侮辱の数々を遺書に残して、彼女は即夜、なつかしのふるさとの海にとびこんで死んだ。
 肝臓先生に遺書一首。

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おみなごの身にしあれば怒りに果てむ
肝臓先生は負けたまはず
[#ここで字下げ終わり]

 その遺作に山吹の花が添えてあった。花は咲けども実のらぬ悲しさを伝えたものであろうか。それをいだいて、先生は慟哭した。
 折しも女将の葬儀がこれから始まるという時であったのである。常の日ならば、この町に稀な盛葬であるべきものを、彼女の慈愛をうけた多くの人々は、あるいは戦地に、あるいは工場に去り、軍を恨んで身を果てた女傑の最後を葬う人は少かった。
 ボロシャツ一枚、水にぬれて駈けこんできた女があった。遠く沖にかすむ小島から、先生の往診をもとめて小舟を漕いできた娘であった。彼女の父が病んでいるのだ。すでに数日食物をとらず、全身黄色にそまり、痩せはてて明日をも知らぬ有様であるという。
 先生は嗟嘆した。
 この淋しい葬儀よ。一人かけても、せつないではないか。しかし孤島からはるばるとヒタ漕ぎに漕いで来たであろう娘を待たせ、孤島に肝臓を病んで医者を待つ病人を待たせ、どうして、ここに止まり得ようか。
「どうしてズブ濡れに濡れたのかね」
「ハイ、敵機が見えるたびに、海にとびこんで隠れていました」
 その日は艦載機が、しきりにバクゲキをくりかえしていた。空襲警報が間断なく発令されていたのである。
「よし。わかった。すぐ行ってあげるよ」
 娘の肩に手をかけて、こう優しく慰めると、先生は棺の前に端坐して、冥目合掌し、
「島に病人が待っています。行ってやらなければなりません。あなただけは、それを喜んで下さるでしょう。肝臓医者は負けじ」
 深く深く一礼を残すと、あとはイダテン走りであった。病院へ駈けつけると薬をつめたカバンをとり、私をしたがえて、一散に海へ。
 三人は小舟に乗った。私は櫂をにぎった。海上で、かなた陸上の空襲のサイレンをきく。それは淋しく、怖ろしいものである。見渡す海に、一艘の舟とてもない。浜に立つ人影もない。
 風よ。浪よ。舟をはこべ。島よ。近づけ。
 先生は舟中で娘の掌をきつく握って、手の色をみた。それは先生が肝臓疾患の有無をしらべる時の最初の方法なのである。
「やっぱり、あなたもあるようだ。どれ」
 もはや、先生は肝臓の鬼だ。慈愛の目が、きびしい究理の目に変っている。
 先生は肝臓に手をあて、強く押して診察した。

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