、薪を割ったり、畑を手伝ってあげたりした。というのは、女中が徴用にとられたりして、奥様一人では手が廻りかねたからである。
 先生は看護婦を使わなかった。それは先生の患者に打ちこむ良心が深かすぎるからである。注射器の手入れをするのも先生であるし、薬を調合するのも先生だ。看護婦にまかせると、ツイおろそかになり易いことを怖れて、先生はすべてを自分でやらなければ気がすまなかったのだ。それなら小さな病院かというと、アパートよりも大きいぐらいの建物だ。けれども先生はめったに入院を許さない。その代り、足の医者をもって自ら心に期しているから、どんなに遠いところへでも、深夜をいとわず往診にまわった。
 先生は最も熱心な愛国者であったが、医学上の信念から、はげしく軍部と対立する事件が起った。
 戦争がタケナワとなって、町の一流の温泉旅館八ヶ所が徴用され、傷痍軍人や治療所関係者の宿舎にあてられた。その中でも一番大きい旅館が紫雲閣であるが、そこに宿泊していた傷痍軍人たちにチブスが発生した。軍医がしらべてみると、女中の一人が保菌者とわかり、そこで全従業員を隔離することゝなったのである。
 ところが紫雲閣の主人がつらつら打ち見たところ、素人目とは云いながら、女中は顔も不健康とは思われず、動作におかしなところもなくて、どうもチブスらしく思われない。
 そこで主人は女中をつれて赤城病院を訪れた。主人はわざとチブスのイキサツを隠して、ただなんとなく様子がすぐれないようだから、徹底的に調べていただきたいと申出たのである。
 赤城先生は乞われるままに、シサイに全身を診察した。そして、病気は流行性肝臓炎ひとつだけで、他にどこも悪いところがないと見究めたので、
「しばらく注射と服薬して、食事に気をつけていれば、まちがいなく治りますよ」
 と言ってやると、
「そうですか。本当に肝臓だけでしょうか」
 紫雲閣の主人は、心配そうというよりも、真剣そのものの顔である。
「たしかに肝臓だけですとも。心配なさることはありません」
「チブスや赤痢ではないでしょうね」
「絶対に大丈夫」
「チブスや赤痢じゃないかと心配したのですよ」
「その御心配はありませんよ」
「そうですか。ありがとうございます」
 主人はホッとしながらも、まだ、なんとなく心に疑念がとけないらしく、
「チブスになったら、どんな風になるものでしょうか」
「イヤ、絶対に大丈夫ですよ。肝臓以外にはどこにも悪いところがありません」
 そこで主人は女中をつれて立ち去った。
 これが事件のはじまりだ。
 主人と女中の報告をきいて、全従業員は結束して、隔離反対を陳情した。赤城先生がシサイに全身検査をして、チブスの疑いなしと診断したのだから、隔離をうけるイワレはない。これが従業員の言い分だ。
 けれども軍医がチブスと診断して隔離を命じたのだから、そんな陳情は通らない。一同は隔離されたが、赤城先生がシサイに診察してチブスでないというものを、隔離室にいられるものかと、一同は勝手にぬけだして、毎日町へ遊びにでゝしもう。カンカンに怒ったのは軍部である。
 軍の命令に服従せず、威信を傷けた憎ッくき奴。その元兇こそは赤城風雨という亡国の肝臓医者だ。ただではおかぬ。見ておれ。
 そこで全従業員の便をとり、毎日毎日、風雨ニマケズ、これを執拗に東京の軍医学校へ送る。軍の威信にかけても、どうしても従業員の便の中からチフス菌を出そうというのだ。
 赤城先生は毎日毎日全従業員が検便されていることを知ったが、自分に対する報復の一念からだとは気がつかない。軍医たちの研究熱心がさせる業と思い、それほど研究熱心なら、モッケの幸い、ともに手をとりあって肝臓炎の正体をきわめたいと思った。
 そこで一日、軍の治療所を訪れて、軍医部長に会い、
「毎日全従業員の検便しておられるそうですが、御熱心な研究態度には、まったく敬服いたしております。医者がみなそのようであれば、病人はどんなに幸福でありましょうか。また一国の健全な発達も、それによって、どれぐらいソクシンされるか分りません。しかし私の診断しましたところでは、便から病菌はでないように思われます。けれども彼らが、たしかに伝染病であることは疑いのない事実で、私はこれを流行性肝臓炎と名づけております。それは流行性感冒に随伴して起る肝臓炎で、肥大と圧痛をともない、伝染力をもっていますが、その病源菌はまだ分っておりません。私は昭和十二年末から、この特異な肝臓疾患に気がつきましたが」
 と、今までの研究をくわしく打ちあけて物語り、
「軍の全盛時代に当って、軍医の方々がかくも仕事に良心的で研究御熱心の態度を拝見して、感激の極に達するとともに、かくも御熱心な皆様方の御協力を得ることができれば、流行性肝臓炎の正体を解明することもできようと、
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング