よりわきあがる喜びと勇気は、たぐえるものもなかったのである。
★
この温泉町にも、社会健康保険制度が施行されることになった。全町民加入の国民健康保険組合である。
先生はこの町のための足の医者として自ら心に期している人であるから、このモウケのない制度にマッ先に全幅の協力を惜しまなかった。したがって、先生の患者はたいがい国民健康保険のモウケの少い患者であり、自然、県へだす国民健康保険報酬請求書類は、ほかの医者の何倍、何十倍と多いのである。
ところが、この先生の莫大な請求書に記された患者の大部分が、例の通り、肝臓炎だ。デタラメな請求書をよこしやがると、保険課の係員が腹を立てたのはムリもないところで、そこで先生のところへ、次のような公文書がきた。
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至急○保第九九二号
昭和十七年四月十五日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]静岡県医師会健康保険部
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赤城風雨殿
社会健康保険組合員三月分報酬請求書の件
貴医御提出標記請求書中、左記患者に対し頭書の通り葡萄糖注射を行われあるも、右注射使用の理由具体的に夫々《それぞれ》御回答|煩度《わずらわしたく》及照会候也
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記
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┃葡萄糖回数│病名 │患者氏名 ┃
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┃ 七│流行性肝臓炎│黒堀八重子┃
┃ 二〇│ 〃 │黒堀多吉 ┃
┃ 九│ 〃 │落合芳太郎┃
┃ 二六│ 〃 │赤木りと ┃
┃ 四│ 〃 │炭山八五郎┃
┃ 一二│ 〃 │太田太郎 ┃
┃ 三│ 〃 │木崎玉太郎┃
┗━━━━━┷━━━━━━┷━━━━━┛
[#ここで字下げ終わり]
先生はこれを見て気を悪くした。肝臓に葡萄糖を注射するのは当り前のことなのである。どの医者だってそうする筈だし、かりにも国民健康保険の係員ともあろう者が、それを知らない筈はありえない。それだのに、右注射使用の理由を具体的にそれぞれ回答しろとは、ワケのわからないこと、おびただしい。
まるで先生の医学知識を疑っているのか、さもなければ、不正をはたらいていると考えている詰問状だ。
つまり、この係員は、町の人々が先生を肝臓医者とさげすむように、先生の患者がみんな肝臓病だからインチキだと思っているのである。先生はそこに気がついたから、さッそく返事を送った。
拝復 昭和十七年四月十五日附御照会の件拝読|仕《つかまつ》りました。葡萄糖注射が肝臓疾患治療に欠くべからざるものなることは医者の常識ですから、御照会の件は、小生申告の患者の殆ど全部が流行性肝臓炎なることに御不審なされての上のことかと拝察いたしますので、それについて御答えした方がよろしいかと存じます。
小生診察の流行性感冒患者に亜黄疸又は中等度の黄疸があって肝臓の肥大ならびに圧痛を伴うことに気付いてから四五年、急激にかような患者が増加いたしております。当地に於ては、赤城氏性肝臓炎とも、オーダンカゼとも流行性肝臓炎とも呼ばれております。まことに流行性肝臓炎の名にふさわしく全国的にビマンしているのですが、小生以外の医師からは、流行性肝臓炎の病名を記載した健康保険報酬請求書が一枚もないのではないかと憂えております。流行性肝臓炎がかくも猛威を逞うしている時に、これに適当した治療が行われていないことは、病人のため、国家のため、まことに寒心すべきことではないでしょうか。この肝臓炎は満州事変頃よりポツポツ内地に侵入、昭和十三年より急速に増加拡散して国民の全階層にシンジュンいたした事が実証されます。まことに国防医学上、天然痘、コレラ、マラリヤ、ペスト等と同等あるいはそれ以上に注意を払うべきことではないかと憂慮しております。かようの事実はいくらも御身近くで御気付きになられる事と確信していますが、是非々々一度当診療所へ来て下さって、実際をごらん下さい。お待ちいたしております。
こう書き送ったが、県の保険課からは、人も来なければ、重ねて文書もよこさなかった。そしてそれ以後の先生の請求書には、流行性肝臓炎の病名が益々増加拡散して、葡萄糖の使用量も激増したが、それはアテツケにしたことではなく、かくも先生を憂慮せしめる事態が益々深刻となりつつあったというだけのことだ。肝臓炎のボクメツこそ先生のイノチを賭けた念願だ。それにも拘らず葡萄糖の使用量は日毎に増加する一方だ。アア! 溜息をもらし、千丈の嗟嘆を放つ者こそは、先生その人であったのである。
私は戦争のはじまるころから、先生の病院へ通って掃除をしたり
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