流行性肝臓炎だ。しかし安心するがよいよ。おうちへつくと、じきに治る薬をあげますよ」
 ちょうど先生がこう言った時だった。爆音がきこえた。にわかに、ちかづいた。こっちへ来る!
 アッと思った瞬間に、私は施す術《すべ》もなく、ただ、すくんで、待つばかりであった。
「伏せ! 伏せ!」
 先生は叫んだ。伏すことのできない私を、怒りをこめて、にらんだ。その先生は伏さなかった。
 飛行機は私たちの舟をめがけて急降下する。先生はそれをジッとにらんでいる。耳を聾する爆音。すべてが、メチャ/\にひっくりかえった。
 気がついたとき、私は海上を漂っていた。かたわらに、小舟が真二ツにわれている。娘が歯をくいしばって、浮いている。しかし、先生の姿はなかった。
 そして先生の姿は永久に消え、再び見ることができなかった。遺品の一つといえども、浜に打ちあげられてこなかったのだ。
 壮烈なる最期である。しかし、あまりにも、なさけない。どうして私が死に、先生が助かることが出来なかったのだろう。
 思えば地上にすら人影ひとつ動くもののないとき、一艘の小舟のみが海上を漂うことのいかに冒険であったことか。敵機がこれを軍事的な何物かと誤認することは当然だった。
 私は茫然として為す術を失い、ただ先生の姿を待って海上に漂うのみであったが、やがて、夕頃、警報も解除となり、救助艇に助けあげられた。娘は腕に負傷していたが、ケナゲな娘で、よく最後まで、私とともにがんばってくれた。
 人々に助けられても、娘はうつむいているのみで一言も喋らなかったが、自分のために先生を殺したことの自責に、あらゆる言葉を失っていたのであった。

          ★

 こうして肝臓先生は相模湾の底深く無と帰してしまったのだ。
 私は烏賊虎さんから先生の生涯の事蹟をきき終ると、感無量であった。このような仁者を、このような粉骨砕身の騎士を、業半ばにして海底のモズクと化した悲しさよ。しかし、また、なんたる壮烈な最期よ。
 私は、今見下している南海の夏の太陽のギラギラした海に、無と帰した先生の何かが、たとえば放射能のように残り、漂っていると思うと、そのなつかしさに、たまらなくなるのであった。
 私は腸からほとばしる涙を感ぜざるを得なかった。そして私は、私の無力を知りながら、この偉大な先生のために碑銘を書きしるすことの光栄に感奮し、筆も折れよと握りしめて、そして書いた。

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 この町に仁術を施す騎士住みたりき
 町民のために足の医者たるの小さき生涯を全うせんとしてシシとして奮励努力し
 天城山の炭やく小屋にオーダンをやむ男あれば箸を投げうってゲートルをまき雲をひらいて山林を走る
 孤島に血を吐くアマあれば一直線に海辺に駈けて小舟にうちのり風よ浪よ舟をはこべ島よ近づけとあせりにあせりぬ
 片足折れなば片足にて走らん
 両足折れなば手にて走らん
 手も足も折れなば首のみにても走らんものを
 疲れても走れ
 寝ても走れ
 われは小さき足の医者なり走りに走りて生涯を終らんものをと思いしに天これを許したまわず
 肺を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり
 胃腸を病む人の肝臓をみれば腫れてあるなり
 カゼひきてセキする人の肝臓をみればこれも腫れてあるなり
 ついに診る人の肝臓の腫れざるはなかりけり
 流行性肝臓炎!
 流行性肝臓炎!
 戦禍ここに至りてきわまれり
 大陸の流感性肝臓炎は海をわたりて侵入せるなり
 日本全土の肝臓はすべて肥大して圧痛を訴えんとす
 道に行き交う人を見てはあれも肝臓ならむこれも肝臓ならむと煩悶し
 患者を見れば急いで葡萄糖の注射器をにぎり
 肝臓の肥大をふせげ! 肝臓を治せ!
 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!
 かく叫びて町に村に山に海に注射をうちて走りに走りぬ
 人よんで肝臓医者とののしれども後へはひかず
 山に猪あれども往診をいとわず
 足のうらにウニのトゲをさしても目的の注射をうたざれば倒れず
 ついに孤島に肝臓を病む父ありて空襲警報を物ともせずヒタ漕ぎに漕ぎいそぐ
 海上はるか彼方なり
 敵機降り来ってバクゲキす瞬時にして肝臓先生の姿は見えず
 足の医者のみかは肝臓の騎士道をも全うして先生の五体は四散して果てたるなりき
 しかあれど肝臓先生は死ぬことなし
 海底に叫びてあらむ
 肝臓を治せ! 肝臓を治せ! と
 なつかしの伊東の町に叫びてあらむ
 あの人も肝臓なりこの人も肝臓なりと
 肝臓の騎士の住みたる町、歩みたる道の尊きかな
 道行く人よ耳をすませ
 いつの世も肝臓先生の慈愛の言葉はこの道の上に絶ゆることはなかるべし
 肝臓を治せ
 たたかえ! たたかえ! 流行性肝臓炎と!
 たたかえ! たたかえ!
 たたかえ! と
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