ていることを認めざるを得ないのである。したがって、漁師の体格は健全とは云われない。寒天に於ても水中に作業する勤労の性質から、豪快であると共に不健康でもあり、たとえば戦争する兵士のように、生活全般がむしろ病的傾向を帯びているのである。
こんなわけで、漁師町でも、温泉町の人々と同じぐらい医薬が必要でもあるのである。したがって、一人の漁師――烏賊虎さんが、一人の医師に深いツナガリをもつに至るのもフシギではない。
烏賊虎さんは赤城風雨先生を信仰していた。それは医者と患者のツナガリをこえ、人格的な讃美カツゴウに到達していたものであるが、それは友人Qに於ても同じことであったろう。
「赤城先生には、こんな患者がたくさんいました。つまり、信者です。まったく人格によるものでして、中には、先生のミタテはダメだが、お人柄が忘れられないなどゝいう信者もいました。これでは先生も浮かばれません。だいたい医者が、医学上の識見でなくて、人格上の崇敬をうけるなどということは、本人にとって満足なことではありません。別して赤城先生はそうでした。医学者としてのほかには、なんの野心もないお方ですから、私のような信者はアリガタ迷惑だったわけです」
これは笑えない悲劇である。しかし赤城風雨先生の生涯が全部笑えない悲劇であった。悲痛でもあるし、滑稽でもある。肝臓先生――イヤ、それは信者の云うことで、町一般では、肝臓医者、これが赤城先生のアダ名だ。もって知るべし。
友人Qがノミをふるって巨大な肝臓を創造し――胃腸と心臓をモデルにつくった肝臓のバケモノが創造中の創造でなくて何物だろう! これを街路の片隅へほッたらかして肝臓先生の高徳をケンショウしようというのは、一見、肝臓医者などゝ言いたてた全市の悪漢どもに復讐しようとの悪趣味が感じられるが、肝臓先生の一生を知るに至って、その然らざるユエンがわかるのである。まったくQはヤケを起したわけではない。胃腸と心臓を見て肝臓をつくったQは、そこに深い感慨と、芸術家の遭遇するコントンとして、又、わりきれた、ある天啓があったのかも知れない。私は今や、そう信ずるのである。
諸君は伊東市の街路のいずこかに、Qのつくった巨大な肝臓を見ることができるはずだ。伊東市のどこ、どの街角ということをシテキすることはできない。それは名もない片隅だ。それでいゝのだ。そして又、街のいたるところ
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