そして、その名跡は子々孫々に語りつたえられるのである。
 たとえば、烏賊虎さんが、そうである。今の烏賊虎さんがヅネエわけではなくて、三代前の先祖が、誰もまだ見たこともない一間ほどの足のある烏賊を釣った。釣りあげることができないので、ついに海中にとびこんで組打ちして仕止めた。
 ヒコさん――三代前は鎌田彦太郎と云ったが――ヒコさんはヅネエ、ということになって、烏賊ヒコ、その時以来、鎌田家は、烏賊ノブ、烏賊タツ、烏賊虎と伝承し、虎さんの長男、鎌田吉五郎はやがて烏賊キチとよばれるようになるはずである。
 タイ釣りの名人を先祖にもつ瀬戸家は代々タイ七とかタイ平などゝよばれ、マグロ久やクジラ市やサメ六の先祖はそれぞれこれらの巨大な魚獣を相手に栄光かがやく戦績を残しているわけだ。アジ文、野口文之助は現役で、つまりアジ家を起した初代であり、不漁になやむ晩夏、ヤケ半分にイワシを探して大島方面を回航するうちに、時ならぬアジの大群を発見した。彼は若い者に後事を托してアジを追わせる一方、自らはザンブと海中にとびこみ、約一里の海を泳いで今井の浜にあがり、天城山麓をヒタ走りに走って、急を伊東海岸につたえた。伊東の町が時ならぬアジの大漁に賑ったのは彼の一大功績であり、文さんはヅネエ、アジ文の名が生れることとなったのだ。かくて彼の子々孫々、アジの名を冠してよばれ、長く父祖の功績をつたえることとなるのである。
 私はこれをシテキするのが苦痛であるが、漁師町の人々は若干体質が畸形である。それは第一に彼らがガンメイ固陋な美食家であること――つまり、偏食からきている。小さな木造船(十五トンから四十トン程度)で赤道をこえ(ただし昔の話。戦後は漁区が縮小されている)一ヶ月、二ヶ月の遠洋漁業にでる彼らは生水のほかに米と塩しか積むことができないし、伊東は元来山地であるから、耕作すべき畑に乏しく、陸上の日常に於ても充分に野菜をとることができない。否、充分にあっても、彼らは野菜を好んで食べないかも知れないのだ。実に彼らはガンメイきわまる美食家だから。
 又、彼らの勤労の性質として、主として上体を使う。大謀網をあげるにも、小舟に坐して、エイサ・エイサ満身の力でひきあげる作業であり、概ね、漁業の作業はこれに類している。彼らは魚と同じように軽々と海を泳ぐけれども、彼らの上体が逞しく発達しているにくらべて、下肢が若干退化し
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