ことを待ち構えてゐるのではないかと伴作は思つた。
「この部屋は、部屋としては却々《なかなか》居心持がいいぢやないか」と白々しく言つてみると、
「ええ、でも、雨宮さんの知らないところへ越したいと思つてるの」
と、果して蕗子はさう答へた。
「それはどういふわけだい? 雨宮が君を口説きでもしたのかい?」
「いいえ、そんなこと有り得ないわ。あの人はそんな気の利いたことのできない人よ。悪い人ぢやないんだけど、毎日だとうるさいもの。貴方と私の生活が今日から始まることにして、それ以前のことには尠しもふれない生活がしたいの。昔があると、しつこくつていやだわ」
――どういふ昔なんだい? と訊きたくなつた心持を伊東伴作は簡単にそらした。昔なんか問題ぢやない、これは浮気だ、たとひこれが自分の人生の重大事であり詮じつめれば中心をなす生活にしても、これは矢張り浮気で遊びで悪戯だ。女の昔の生活のことまで気に病むやうな心構えにとらはれてゐると、せつかくの悦楽が苦労の種に変るやうな莫迦をみる、それもみんな心構え一つのことで野暮な深入りはしないことだと考へた。
心当りのアパアトへ行つてきいてみると、探す苦労もなく
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