、伴作のもはや半ば失はれた記憶の奥を辿つてみると、勿論極めて無責任なその場限りの冗談としての話であつたが、かれこれ一年近く前からさういふ言葉が少くとも二度三度は紅庵の口から洩れてゐるやうである。もとよりこのくらゐの冗談は誰の口にもありうることでそれ自体としては奇も変もないが、冗談から駒がでたといふものか、これが現在はほんとの話になつてゐる事態の底を綿密に探つてみれば、雨宮紅庵自身すら気付かぬところの一つの強力な潜在意志が彼の秘密の情慾に沿うて流れ、この冗談の底に作用《はたら》いてゐたと思はれぬ節もないではない。つまり雨宮紅庵のある隠された心の奥では、自分のこのたびの恋情が如何様《いかよう》に熾烈の度を加へるにしても、自分と女との交渉がこれまでのところ恰《あたか》も裃《かみしも》をつけた道学者の如く四角張つた身構えにあり、窮屈な仮装を強ひられて身動きもならぬ状態にある限りに於て到底この上の展開に見込みがなく、又自分の引込思案な性情としては到底自らこの仮装をかなぐりすてる底の一大勇猛心をふるひおこす天来の奇蹟も望みが薄いとなつてみると、自分の恋を自分の恋の形に於て成立せしめる見込みは先づ有
前へ 次へ
全34ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング