別な手掛りがあつた。ちやうど引越しの前日あたり、伊東伴作が蕗子の宿へ出掛ける時間に、雨宮紅庵に紛れのない人物がその道順の途中に当る露路の奥にうろ/\するのを認めたといふ、店の者の語る噂を偶然小耳にはさんだのだ。
伊東伴作は腹が立つた。騙されてもいいと思つてゐたが、たいした騙しやうのできる紅庵でないと見くびつてゐたところから、さういふ悟つた考へ方も湧いたのである。それにあれからの毎日が騙されるやうな様子ではなかつた。蕗子の下宿で寛ろいでゐた紅庵の姿を思ひだしても、あれはあれだけの愉しみに酔つてゐたとしか思はれない姿で、それ以上に計劃的なあくどい気配を感じだすことはできなかつた。紅庵の訪問を嫌つて引越しをせがんだ蕗子の様子もそれだけのもので、ほかの企らみがあるやうに思へなかつたし、引越してからの毎日は新妻のやうに新鮮で、親愛の情は言ふまでもなく落付きのある明るさが目立つて表はれてきた様子からみても、あの生活に蕗子の心が籠つてきた証拠はあつても人を騙す暗い蔭は認める由がないやうだつた。わけの分らないことなので無暗に腹が立つばかりだが、腹が立つと益々みんな分らなくなつてきた。アパアトへ越して
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