年くらゐで独立できるやうになるわね。私だつてその気で勉強すれば一人前のことは覚えられると思ふわ。おでん屋とか喫茶店だつていいのよ。とにかく自分の生活費ぐらゐ自分でなんとかしたいのよ」
伊東伴作は吃驚した。この女でも自分の力で生きたいやうな能動的な生活慾があるのかと思つた。あたりまへの奥方とか二号といふものに納まつて至極ぼんやりと暮すだけで、ほかに慾も根気もないのだと思つてゐたのだ。
「君でもそんな激しい生き方がしてみたいのか?」と伊東伴作がやや驚いて蕗子の顔を見直すと、
「あたしだつて――」
と蕗子が紅潮した顔をあげて、その言葉を掴みだすやうな激しいものを感じさせながら、
「命もいらないやうな激しい恋愛がしてみたいと思ふわ」
と答へたので、伊東伴作は益々もつて面喰はずにゐられなかつた。そろ/\自分の国を出外れて、よその国へ踏み迷つてきたやうな勝手の違つた感じさへしはじめたが、面喰つて戸惑ふよりも、どうやら陶然とするやうな何やら一脈爽快味のある異国情趣に打たれたことも否めなかつた。
ところがその翌日、伊東伴作が蕗子の宿を訪れようと思つてゐるところへ、雨宮紅庵が外面だけは相当逞しい遠慮気分を漂はせながらやつてきた。つまり今後は案内知つた隠宅とはいへ主人伴作の許しを受けない限り滅多に一人で訪れはしないぞといふやうな、鹿爪らしい遠慮気分を生臭いぐらゐプン/\発散させながらぬッと現れてきたのだつた。そこで二人は無論相談するまでもなくやがて連れ立つて蕗子の宿へ歩きはじめたが、歩きはじめたと思ふと紅庵が重大な進言でもする内閣書記官長といつた勿体ぶつた顔付をして妙なことを言ひだした。
「どうだね、二号をただ遊ばせておくといふ不経済な手はないが、商売でも始めさせたら。洋裁とか美容術といふこともあるが、これは店を開くまでに相当修業の時間がかかるだらうしね。喫茶店とかバーといふものはどうだらう? 儲からないまでも損といふことはないものだよ。巧く行けば結構君が遊んで食つて行けるくらゐの繁昌だつて、あながち望めないことではないね。蕗子さんほどの美人なら、あの人ひとりでも相当の客がつくと思ふが……」
これをきくと、伊東伴作は驚くよりもやや呆れかへつた形で、
「なるほど、それで読めた!」と思はず叫んだほどだつた。
「どうも蕗子の頭からああいふ考へがでてくるのはおかしいと思つたが、それぢやあ君の意見を受売りしてたんだね。実は昨日蕗子からそつくり君と同じことを言はれたのだが」
「冗談ぢやないよ!」
と紅庵は飛びあがるほど吃驚して、大袈裟な身振りまで起しながら猛烈に否定した。
「こんなことを言ふのは君だからのことなんだ。いや、もう先から君に内々不満を感じてゐたのだが、どうも君は僕を誤解してゐるよ。君はこのたび如何にも僕が裏へ廻つて何かと策謀してゐるやうにとつてるらしいが、それは甚だ迷惑な誤解だよ。今日のことだつて蕗子さんに訊いてもらへば分ることだが、君だからこそ心やすだてに斯ういふ進言もするわけで、いくらなんだつて君に話しもしないうちに斯んな入れ知恵を秘密つぽく吹き込むものか。いや、これで君の気持がよく分つたよ。どうも先から変な誤解をしてるんぢやないかと疑つてゐたのだ」
「さう大袈裟にとりたまふな……」
と、こんどは伊東伴作の方で紅庵の大袈裟な気勢に少々驚きながら、おさへて言つた。
「僕がさつき君の言葉をきいて面喰つたのは、君が蕗子に入れ知恵をしたといふ事柄に就てではなく、昨日の蕗子の意見がどうやら蕗子自身の頭から出たものではないらしいといふ理由からだよ。なにしろ昨日は蕗子からその話を切りだされた時は、この女でも時にはこれくらゐの考へごとをめぐらしてゐるのかと思つて確かに吃驚したのだからね。だいたい君はひどく大袈裟に騒ぐやうだが、たかがこれくらゐの入れ知恵を、よしんば実際吹きこんだにしたところで、別段誰を陥れるといふ事柄ではなし、却つて逆に僕達の利益になることを言つてくれたわけだから、君がこれくらゐのことに拘泥《こだわ》つて大袈裟に騒ぎだした理由といふものが、却つて僕には呑みこめないやうなものだよ」
然し紅庵は却々これだけで納得しさうな見幕ではなく、改めて伴作の誤解といふことに就て執拗にくど/\と詰るやら言訳けやら詠歎やら手を代え品を代えの目まぐるしい変化で述べはじめたが、そのことはとにかくとして、その日紅庵も帰つたあとで折をみて蕗子にききただしてみると、紅庵の莫迦々々しいほど大袈裟な見幕だけでも今度に限つてさういふ策謀のないことはほぼ見当がついてゐたが、果して蕗子もさういふことは確かになかつたと答へた。けれども蕗子は暫く何やら思ひださうとするやうな様子のあとで、斯う言ひだした。
「だけど、さうね、雨宮さんはそのことを昔はしよつちう言つてゐたわ」
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