写なぞを思ひだせば、最も飢えた一人の男がその飽くことを知らない食慾を通して一皿の妖しく焙られた豊肉を眺めるやうな、余りにも痛々しすぎるほど焼けただれた官能の悲鳴をでも聞くやうな思ひがして、寧ろ甚だ陰惨なるものを感じ、面を背けずにゐられぬやうな苦しさを味ふ心持をするのだつた。もとより惚れるといふほどの真剣な気持ではなかつたにしても、親しい女友達の尠い雨宮紅庵にしてみれば、秘かに情炎の絵巻物をくりひろげる時の最も実感ある対象は日頃親しい蕗子のほかになかつたわけで、さういふ意味では彼の最愛の情婦だつたに相違なかつた。
最愛の心の女を人の二号に世話をする、一見甚だ奇妙のやうに思はれて、さういふことは有り得ぬやうに思はれるから、蕗子を伊東伴作のもとへ連れこんできた紅庵の気持は仕事の世話でもしてもらひ、あはよくば純粋に生活の保証だけをしてもらふといふぐらゐのところで、二号の世話を焼く意志なぞは微塵もなかつたことのやうに考へられるが、然しつら/\考へてみると然う単純に言ひきれぬものがあるのだつた。そも/\紅庵が伊東伴作をつかまへて、蕗子を二号にしたらどうかと言ひだしたのは今度が始めてのことではなく、伴作のもはや半ば失はれた記憶の奥を辿つてみると、勿論極めて無責任なその場限りの冗談としての話であつたが、かれこれ一年近く前からさういふ言葉が少くとも二度三度は紅庵の口から洩れてゐるやうである。もとよりこのくらゐの冗談は誰の口にもありうることでそれ自体としては奇も変もないが、冗談から駒がでたといふものか、これが現在はほんとの話になつてゐる事態の底を綿密に探つてみれば、雨宮紅庵自身すら気付かぬところの一つの強力な潜在意志が彼の秘密の情慾に沿うて流れ、この冗談の底に作用《はたら》いてゐたと思はれぬ節もないではない。つまり雨宮紅庵のある隠された心の奥では、自分のこのたびの恋情が如何様《いかよう》に熾烈の度を加へるにしても、自分と女との交渉がこれまでのところ恰《あたか》も裃《かみしも》をつけた道学者の如く四角張つた身構えにあり、窮屈な仮装を強ひられて身動きもならぬ状態にある限りに於て到底この上の展開に見込みがなく、又自分の引込思案な性情としては到底自らこの仮装をかなぐりすてる底の一大勇猛心をふるひおこす天来の奇蹟も望みが薄いとなつてみると、自分の恋を自分の恋の形に於て成立せしめる見込みは先づ有るまいと言はなければならないから、そこで蕗子を他人の手で堕落せしめるといふ手段によつて秘かに医《いや》されぬ自らの情慾を慰めようといふ斯様に変態的なカラクリがひそかに作用いてゐたのではあるまいか? かうまで整然たる筋を具へた心のカラクリではないにしても、もつと曖昧模糊たる異体《えたい》の知れぬ混沌状態に於てなりと、とにかく蕗子を他人の手をかりてまでも堕落せしめ、情痴の坩堝の中へ落し、かうして炎上する芳醇な又みだらな気配を飽かず眺めることによつて、自らの医し難い情慾をひそかに慰めようといふ、さういふ変態的なカラクリが潜在したであらうことは必ずしも言へないことではないやうだつた。或ひは又、無能者を良人に持つ美貌の一女性が医されぬ性慾に身悶えして道ならぬ恋に走るといふ、必ずしも蕗子に限つたことではなく、従而《したがつて》紅庵自身に直接何等の関係はなくとも、単にさういふ事柄のもつ何やら息づまるやうなあくどい情慾の雰囲気だけが已にして彼に好ましかつたのかも知れない。所詮雨宮紅庵は何時に限らず自身の恋を自身のものとして完成することはできさうもない男であつて、他人の恋を垣間見てもそれが忽ち己れの秘密の情痴の世界に展開してくるといふやうな円融|無碍《むげ》の神通力を心得ており、同様に自分の恋情を他人の情事の姿に於てもとにかく不充分ながら満しうるといふやうな、他人の色事を垣間見て無上の法悦を覚える底の摩訶不思議の性能を具へてゐるのかも知れなかつた。
それにしても頼りないのは蕗子その人の気質であり心事であつた。はつきりした自分のものといふ信念なり考へなりがあるのやらないのやら、どうにも確《しつか》りした心棒といふものが皆目見当らない感じで、甚だ頼りないのだつた。けれども然ういふ心許ない女の姿が、その人に執着を持ちはじめた男にとつて却つて可憐な風情を添え、並ならぬ魅力を発揮することもあるやうに、伊東伴作の仇心もやや執着に変りはじめてゐたのだつた。
蕗子の甚だ頼りない有様といへば、たとへばその日改まつて斯ういふことを切りだしたのである。
「自分で独立できるやうな商売を始めさせて下さらない? どんな商売でもいいわ」
蕗子の顔は真剣だつた。
「いつまでこんな風ぢや心細いわ。自分で自分の生活だけはやつてけるやうにしておきたいの。洋裁でも美容術でも写真でもタイプライタアでもなんでもいいわ。一
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