「昔つて、いつのことだ?」
「半年も、一年くらゐも昔のことよ。結婚なんて窮屈だから、なるべくそんな束縛を受けないやうな生き方が賢明だつて言ふのよ。つまりバーなり喫茶店なり開かせてもらつて、面白おかしく暮すやうな工夫をする方がいいつて言ふの。その話はよくきかされたわ」
「なるほど」伊東伴作は心の底で、やつぱりさうだと思はず大声で叫んだのだつた。
 昨日今日紅庵にそそのかされた事柄ではないにしても、底の底まで探つてみると、女の行動や考へ方の隅々まで紅庵の執拗な感化が行きわたつてゐるやうな気がした。執拗な感化があくどく行きわたつてゐるだけに、蕗子はなんとなく紅庵に反撥を感じ、紅庵の知らない所へ引越したいやうな考へを起したりするが、要するにその反撥の裏を辿れば、家出してからの蕗子の考へや行ひの一つ一つが紅庵の影響のもとにあり、蕗子そのものの本体まで紅庵の生臭い臭気から抜けでることができずにゐるのではあるまいかと伊東伴作は考へたのだ。蕗子がさういふ頼りない状態にあり、全く無意識に紅庵の思想の傀儡となつて動くものとしてみると、紅庵のことだからろく[#「ろく」に傍点]なことを吹きこんだ筈がなく、バーでも開いて男を探し、男から男へといふ風に面白おかしく、とでも毎日喋つてゐたのだらうが、それをそつくり実践されては堪らないと伊東伴作は怖れをなして考へた。然しいくら蕗子だつてまさかにそこまでは踊るまいとせいぜい気休めを弄んでゐると、蕗子への愛着はもはや牢固として抜くべからざる妄執に変りはじめてゐたのだつた。



底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
   1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「早稲田文学 第三巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
初出:「早稲田文学 第三巻第五号」
   1936(昭和11)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
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