のみが全部であつた。彼は現世の快楽に執着した。その執着の一念であつた。
 秀吉は秀次の性格を知つてゐた。こざかしい男であるが、小心で、己れを知り、秀吉の愛に飢えてゐるのだ。五人の使者から身の毛もよだつ神下しの状景をきゝ一念こらして誓紙に真心をこめてみせる秀次の様子をきくと、彼はほろりと涙もろくなるのであつた。彼は誓紙を手にとると唐突に亢奮して膝をたて感動のためにふるへてゐた。彼は誓紙を侍臣に示して、関白の忠義のまごゝろは見とゞけた。これを見よ、世上の浮説は笑ふべきかな。血は水よりも濃し。まして誠意誠実の関白に異心のあらう筈はない。口さがない百万人の人の言葉はどうあらうとも、一人の肉身の心の中は信じなければならぬものよ。そなたらもこれを今後の鑑《かがみ》にせよ、秀吉は見廻し眺めて大音に喚いたが、尚亢奮はをさまらず誓紙をぶら下げて部屋々々を歩き、行き会ふ者に、女中にまで誓紙を示して、心に棘のある者のみが人の心に邪念を想ふ、神も照覧あれ、秀次の心に偽りはない、叫ぶ眼に顔があふれた。
 けれどもすでに使者を立て異心なきあかしを求めた秀吉は心の堰を切つてゐた。誓紙を握つてホロリとする秀吉は、切ら
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