けが見たい為のことであり、その忠勤の心差《こころざし》一つで益々所領をとらしてやりたい微意であつた、と語りながらポロ/\と涙を流した。
秀次ははからざる秀吉の嫉妬と憎悪に心が消えた。この招待の返礼に、そして太閤の意外な憎悪のつぐなひのために、善美のかぎりの饗宴へ招きたいと思つた。秀吉も承諾したので、あれこれ指図して待ちかまへると、当日になつて、今日はだめだが、明日にしようといふ。その日になると、又、明日だ、と言ふ。その明日も亦《また》今日はだめだといふ返事で、そして最後に当分延期だと流れてしまつた。秀吉の目の消えぬ憎悪が伝へられる返事の裏から秀次に見えた。やがて憎悪は冷笑に変り、血に飢えてカラ/\笑つて見えるのだつた。秀次の心には憎悪と戦慄が掻き乱れて狂つたが、殺さなければ殺されない、その秘められた一縷の希ひも絶望にすら思はれた。彼はむやみに人を殺した。深酒に酔ひ痴れ、荒淫に身を投げ沈鬱の底に重い魂が沈んでゐた。彼の心は悲しい殺気にみちてゐた。彼は武術の稽古を始めた。秀吉を殺すためのやうであつたが、襲撃にそなへ身をまもるための小さな切ない希ひであつた。出歩く彼は身辺に物々しい鉄砲組の大部隊を放さなかつた。いつ殺されるか分らない。然し、殺さなければ殺されない、その希ひは益々必死に胸にはゞたき、見つめる虚空に意外な声があふれでた。叔父さん、私はあなたを愛してゐます。こんなにも切なく。私のやうな素直な弱い人間を。神様。
★
秀吉は大度寛容の如くであるが、実際は小さなことを根にもつて執拗な、逆上的な復讐をする人だつた。千利久も殺した。蒲生家も断絶させた。切支丹禁教も二隻の船がもとだつた。その最後の逆上までに長い自制の道程があり、その長さ苦しさだけ逆上も亦強かつた。
秀吉は大義名分を愛す男であつた。彼は自分の心を怖れた。秀頼への愛に盲《めし》ひて関白を奪ふ心を怖れた。人の思惑はどうでもよかつた。自分をだますことだけが必要だつた。能の嫉妬は憎悪の陰から秀頼の姿を消した。その憎しみにかこつけて、あらゆる憎悪が急速に最後の崖にたかまつてゐた。
彼は突然世上の浮説を根拠にして秀次の謀叛に誓問の使者をたて、釈明をもとめた。秀次はその要求に素直であつた。直ちに斎戒沐浴し白衣を着け神下しをして異心の存せざる旨誓紙を書いた。彼は必死であつた。生きねばならぬ一念のみが全部であつた。彼は現世の快楽に執着した。その執着の一念であつた。
秀吉は秀次の性格を知つてゐた。こざかしい男であるが、小心で、己れを知り、秀吉の愛に飢えてゐるのだ。五人の使者から身の毛もよだつ神下しの状景をきゝ一念こらして誓紙に真心をこめてみせる秀次の様子をきくと、彼はほろりと涙もろくなるのであつた。彼は誓紙を手にとると唐突に亢奮して膝をたて感動のためにふるへてゐた。彼は誓紙を侍臣に示して、関白の忠義のまごゝろは見とゞけた。これを見よ、世上の浮説は笑ふべきかな。血は水よりも濃し。まして誠意誠実の関白に異心のあらう筈はない。口さがない百万人の人の言葉はどうあらうとも、一人の肉身の心の中は信じなければならぬものよ。そなたらもこれを今後の鑑《かがみ》にせよ、秀吉は見廻し眺めて大音に喚いたが、尚亢奮はをさまらず誓紙をぶら下げて部屋々々を歩き、行き会ふ者に、女中にまで誓紙を示して、心に棘のある者のみが人の心に邪念を想ふ、神も照覧あれ、秀次の心に偽りはない、叫ぶ眼に顔があふれた。
けれどもすでに使者を立て異心なきあかしを求めた秀吉は心の堰を切つてゐた。誓紙を握つてホロリとする秀吉は、切られた堰の激しさがその激しさの切なさ故に自らむせぶ心の影のくるめきに過ぎなかつた。一週間。その時間が切られた堰の逆上的な奔騰に達するまでの時間であつた。五人の使者がでた。使者の一人は戦場名うての豪傑の大名だつた。喚問に応じなければその場で秀次の首をはねる役だつた。さうすれば彼もその場で腹を切らねばならぬ。豪傑も慌てゝゐた。道の途中に知人のまんじゆう屋があつた。そこへ馬を寄せて形見の小袖をやり家族へ遺書を托して馬を急がせた。然し秀次は素直に応じた。豪傑は又まんじゆう屋の店へ寄り、さつきは失礼、いやどうも今日は天気のまぶしいこと、豪傑は汗をふいた。
秀次は登城する、秀吉は会はなかつた。もはや会ふにも及ばずと口上を伝へ、即刻高野へ登山すべしと云ふ。秀次は観念して直ちに剃髪、袈裟をつけて泊りを重ねて高野へ急ぐ。切腹の使者があとを追つた。
秀吉の一生の堰が一時にきられた。奔流のしぶきにもまれて彼のからだがくる/\流れた。耳もきこえず、目も見えず、たつた一つのものだけが残つてゐた。秀頼。秀頼。秀頼。彼は気違ひだつた。秀次の愛妾達とその各々の子供達三十余名が大八車につみこまれ三条河原にひきだされて
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング