鬱であつた。諸国の美女をあつめても心は晴れず、魂は沈みこむばかりであつた。不健康は顔にあらはれ、面色は黄濁し、小皺がつもり、口が常にだらしなく開き、顔の長さが顎から下へ延びて垂れてゐるやうな様子であつた。眼だけが陰気に光つてゐた。彼は生きた人体の解剖に興味を持ち、孕み女の生き腹をさき、盲人をやにはに斬つてうろたへぶりをたのしみ、死ぬ人間の取りみだしたけたゝましさ見ぐるしさに沈鬱な魂をわづかに波立たせた。食事の飯に砂粒があつたといふので料理人をひきだして口中へ砂をつめて血を吐くまで噛ませ、貴様は砂が好きなさうな、もそつと噛め、俯伏すのを引起して片腕をスポリと斬落して、どうぢや、命が助かりたいか、ハイ、助かりたう厶《ござ》ります、左様か、然らばかうしてとらせる、残る片腕をスパリと斬落す、どうぢや、まだ、助かりたいか、料理人はクワッと眼を見開いて、馬鹿野郎、貴様の口は鮟鱇に似て年中だらしなく開いてゐるから砂があるのは当り前だ。秀次は気違ひのやうにその首を斬落した。

          ★

 熱海温泉で秀吉の苛立つ様を思ひ描いてことさら逗留を延してゐた秀次は、小さな鬱を散ずるあまり大きな敵を自ら作つた後悔に苦しんだ。彼は自ら秀吉を敵と思はねばならなかつた。すべてを悪意に解釈して、それを憎まねばならなかつた。然し彼は秀吉の冷めたい心、その怖ろしい眼の色を知つてゐた。彼はその眼を思ひだして、いはれなく絶望せずにゐられなかつた。
 彼が関白の格式で公式に太閤を招待する饗宴がまだ延び延びになつてゐた。そしてやうやく定められた饗宴の当日に使者がきて、訪問中止を伝へた。世上では秀次が秀吉を殺さなければ、秀吉が秀次を殺すであらうと噂され、秀次の計画が裏をかゝれたのだと取沙汰した。然し世上の流説は秀次の身辺ではさらに激烈な事実であつた。彼の侍臣は常に彼にさゝやいた。殺さなければ、殺される。然し、秀次は応じなかつた。彼は小心な才子であり、自己の限界を知つてゐた。秀吉を殺しても天下はとれぬ。太閤あつての関白であり、太閤あつての味方であつた。彼は侍臣のさゝやきに、また世上の流説にとりまかれ、然し、ひそかに、殺さなければ殺されないと必死に希つてゐるのであつた。
 彼は絶望しなかつた。絶望してはならないのだ。日を改めて秀吉を招待する。彼は必死であつた。殺さない、それを秀吉に分らせたい。もし秀吉が疑つたら、彼は気違ひになりさうだ。そして秀吉が疑ることを考へると殺したいほど憎かつた。秀吉の数日の滞在を慰めるための催しも、饗宴の食物も、彼は一々指図した。彼は心をこめてゐた。熱中した。そして苛立つ毎日に人を殺したくなるのであつたが、太閤がそれを好まぬことを知ると、それも我慢するのであつた。
 秀吉は饗宴に応じ、連日のもてなしに満足したが、異変にそなへて部屋々々には武器をかくした秀吉の軍兵たちがつめてゐた。三日目の夜、狂言の舞台を移すために人足達が立騒いだとき、町の人々はたうとうやつたと考へた。
 秀吉は名護屋で能の稽古をはじめた。人見知りせずやりたてる流儀であるから長足の進歩をとげ、秀吉自身も案外な上達ぶりであつた。得意想ふべし、暇さへあれば稽古に余念がなく、天覧に供し、大名に見せ、妻妾侍女に見せ、果は京都の町家の女子衆も一人あまさず悩殺してやらうといふので一般に公開して見物させ、頻りの興行、ほめる者には即座に着てゐる着物まで脱いでくれてやる。彼の「芸術」への情熱と没入は言ふまでもなく余技であり趣味であり冗談ごとですらあつたのに、所詮うぬぼれは自尊心で、秘められた凋落の不安と自信の喪失は、冗談ごとのうぬぼれにいはれのない奇妙ないのちをこめてゐた。
 大坂城で能の興行が行はれ、秀次も招ぜられて出席した。秀吉の仕舞は喝采をあびたが、もとめに応じて立上つた秀次の演技は更に満座の嘆賞をさらつた。秀次は特別仕舞に巧者であり、我流の秀吉や武骨な大名どもに比べれば雲泥のみがきのかゝつた芸だつた。太閤の不満と嫉妬と憎しみはかきたてられ、その眼の底に隠しきれずに氷つてゐた。つゞいて織田信雄がもとめられて演じたが、信雄は信長の遺子であり、怖れを知らぬ青年の頃は家康と結んで秀吉と戦ひ、後に厭まれて秋田へ流され、家門の尊貴のみによつては自立し得ざる力の世界、現実の冷めたさを見つめてきた。今は召されて秀吉のお伽衆の一人であつたが、彼の心は卑屈にゆがみ、浮世の悲しさが泌《し》みついてゐた。信雄は秀吉の燃える憎悪の眼にふるへた。彼はとりわけ下手くそに演じた。秀吉の同情は切実だつた。彼は即座に六千石の墨附を与へて労をねぎらひ、傍へよびよせて父信長に愛された頃の思ひ出を語り、その取立ての厚恩、海よりも深く山よりも高い恩義を思へばそなたを辺地へ流したことは苛酷な仕打のやうであるが、今日のそなたの心掛
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