に興味をもつのは自然のことだ。そして、犯罪というものは、ともかく当人がギリギリに追いつめられてセッパつまった感があるから、救いもあるし、憎めないところもあるのが普通である。ハタの目から見れば、そうまでセッパつまらなくとも、ほかに身をかわす手段はありそうに思われるのは当然だが、当の本人はそうは自由に冷静な目で八方に目が配れるものではない。感情のモツレというようなものは、どんなに理に勝った人でも、理だけで捌けるものではないのである。
 罪というものは、本人が悔恨に苦しむことによって、すでに救われている。悪人の心は悲しいものである。ところがここに善人の犯罪というものがあって、自ら罪を感じない場合がある。大官を暗殺して、天下国家を救うつもりであったと豪語し、罪人どころか、ひそかに自ら救国の国士英雄を気どるような連中は云うまでもなく、教え子、使用人、子供などをセッカンする教師、上役、親父の類に至るまで、善人の犯罪は甚だ少くない。
 主人や親に抵抗するのを悪事と見るのは、古来の風習であるが、召し使われる者や子供にも悲しく切ない理のあるもので、カサにかかって理を理として執りあげることを忘れて特権をふ
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