クがつまって、私の鼻から上だけが水の上にでているのである。私は完全に無抵抗状態であるから、鼻が水上にでていなければ、自分で起き上って鼻をだす精根も分別もなかったのである。ふと気がつくと、私は息をしているし、鼻から上だけ水の上へ出ているのだ。オヤオヤ、死ななかったのか、と私は気がついた。
 ジッとしていると、次第に意識が戻ってくる。尿意を催してきた。私の手も胴も足も水の中にある。私は水中でズボンのボタンを外した。そして小便しようとすると、意外なことが起った。いくら手さぐりで探しても、放尿すべきホースがないのである。ホーデンもなければペニスもない。いくら手探りしてもノッペラボーである。
 疲労その極に達すると、みんな腹中にもぐりこんで、こんな風になるものだそうだ。おまけに私は谷川の中につかっているのだから、それが一そうひどかったらしい。当時はそうとは知らないから、このときの私のオドロキというものは、話の外である。私はもがいて起き上ろうとしたが、どッこい、そう簡単には起き上れぬ。まだ、それだけの精根は戻らない。落下しつつ死ぬナと思った時にはいささかも慌てなかったが、一物の消滅にはことごとく慌てふためいたのである。
 私ははじめて自分の身体に怖るべき異常が起ったことを認めた。水中から手をだして、目の前にかざしてみると、まったく暗い紫の色である。斬り落した鬼の手を眺めているようで、人間の皮膚の色として、想像しうる色ではない。爪の色も同じ暗紫色に変っている。私はもう男でもなくなったし、常の皮膚の色まで永久に失ったのかと早呑みこみをしたほど悲しかったのである。そのうちに、腹の中から生あたたかい尿水が流れでたので、ようやく一縷の勇気、希望をとりもどした。疲労コンパイのアゲク、一時的にこうなっているのかも知れないと思うことができたからであった。
 こうして水中にジッとつかっているうちに、谷はたそがれ、ようやくいくらかの精根が戻ってきた。とても上の径まで登る力はないと生還をあきらめていたのであったが、精根が戻ってくると浮世の才覚も戻ってきて、ナニ、上の径まで登らなくッとも、谷川ほど確実な径はない。山の径はたまたま自然消滅して人里へ通じてくれない場合があるが、谷川というものは、必ず人里へ通じるものである。これぐらい確かな道はない。おまけに谷川を渉りつつ、目を皿にして対岸を吟味して行けば、丸木橋のかかっていた径の跡を発見することができるだろう、と判断がついたのである。そして、勇をふるッて岩と岩の中から身を起し、ついに、とっぷり暮れようとする寸前に山小屋へ辿りつくことができたのである。翌朝、目を覚すと、私の全身はいたるところ大きなコブをつけたように腫れあがり、殆ど身動きもできなかった。砂糖や塩や味噌は原形を失い、ドロドロになっていたが、それらが私の一命を助けてくれたものとして、なんとも有難く、いじらしく見えた。一日二日は身動きできず、そのドロドロをなめながら、ケダモノの穴ゴモリのような気持で一陽来復を待っていたのであった。
 私は、しかし、この小屋に長くはとどまらなかった。ちょうど、この豪雨で、小屋のうしろの崖がくずれて、小屋に異常はなかったが、便所だけつぶれてしまった。その異変のためにネグラを失ったのかも知れないが、毎晩一匹の蛇が小屋の梁に巻きついているのである。日中はいなくなるが、夕方になると、巻きついている。よく見ると、どうもマムシらしい。夜中にマムシに襲撃されては困るから、蚊帳をつり、蚊帳の裾を百冊ぐらいの書物で隙間なく押えて眠ることにした。そんなことがあって、山の生活も、それほど気楽なものではないと分ったので、山中隠遁をあきらめて下山した。
 この小屋は後に同郷のコンミュニストで山添という人が、出獄後、遁世して住みつき、数年、もしくはより長く住んでいたらしいが、彼の奥さんは、とうとうマムシに噛まれたそうである。しかし、生命には別状なかったそうだ。
 谷川岳は美しい山だ。私の故郷はあの山の向う側にあるので、その往復に車窓から眺めながら、季節々々にいつも美しい山の姿に見とれることが多かった。とりわけ冬は美しいが、それはあらゆる山がそうなのだろう。目には親しい山であるが、私はまだこの山に登ったことはない。
 私は自分がいち早く、青梅近在の名もない山の入口で非常に気楽に死に損って、その印象があざやかで、なつかしいせいか、人々が山で死んだという話には、なんとなく清涼な感慨を覚えて、人の死について感じるような暗さを知らないのである。
 しかし、今度の場合は、生還した女性が一人いて、その人の報告によると、何者かが道標の方向を逆に変えていたために遭難したのであるという。まことに由々しい話である。
 私は犯罪には興味をもっている。人間について興味をもてば、犯罪
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