に興味をもつのは自然のことだ。そして、犯罪というものは、ともかく当人がギリギリに追いつめられてセッパつまった感があるから、救いもあるし、憎めないところもあるのが普通である。ハタの目から見れば、そうまでセッパつまらなくとも、ほかに身をかわす手段はありそうに思われるのは当然だが、当の本人はそうは自由に冷静な目で八方に目が配れるものではない。感情のモツレというようなものは、どんなに理に勝った人でも、理だけで捌けるものではないのである。
罪というものは、本人が悔恨に苦しむことによって、すでに救われている。悪人の心は悲しいものである。ところがここに善人の犯罪というものがあって、自ら罪を感じない場合がある。大官を暗殺して、天下国家を救うつもりであったと豪語し、罪人どころか、ひそかに自ら救国の国士英雄を気どるような連中は云うまでもなく、教え子、使用人、子供などをセッカンする教師、上役、親父の類に至るまで、善人の犯罪は甚だ少くない。
主人や親に抵抗するのを悪事と見るのは、古来の風習であるが、召し使われる者や子供にも悲しく切ない理のあるもので、カサにかかって理を理として執りあげることを忘れて特権をふり廻す。だから、感情はモツレにモツレ、抑圧に抑圧を重ねることとなり、主殺しとか、親殺しというものには、最も殺して然るべき理由があるのが通例なのである。この理をわきまえずに、主殺し、親殺しを重く見るのは封建遺制にとらわれて正しい判断を失した者の云うことである。はじめから主や親に加担した法律などというものは、文明開化の世に在りうべきものではない。過去の妖怪にすぎないのだが、日本の法律は未だに妖怪のまま君臨しているという悲しむべき状態なのである。
出征した良人が外国から外国婦人をつれて帰還した。内地で待っていた妻と、外国婦人にとっては、その去就まことに真剣な問題であるが、昔同じような立場に立って良人と離婚したことのある婦人代議士が日本人の妻の方を訪ねて、私がそうであったように、あなたも身をひきなさいと忠告したということなども、婦人代議士は善意と親切のツモリで自分の罪を感じていないのだから、やりきれない。自分と人は違うものだ。人間関係も環境も、まったく人によって別々なのが人間というものの在り方で、したがって人間関係を解く公式というものは永遠に在り得ない。めいめいが自分の一生を自分で独自に切り拓くべきものである。それぐらいの理も弁えずに、自分がこうだから、あなたもこうしろという思いあがった善良さは、まことに救いがない。善人の罪というものは、やりきれないものだ。
無邪気の罪も同じことで、道標のムキを変えるというイタズラは、その結果についての怖るべき罪をさとらぬ無智のせい、悪意はなくとも、無智ということ自体が罪だ。悪意がないだけ、救いがない。
しかし、今回の谷川岳の道標事件は、永遠に犯人は分るまいと思いのほか、まるで筋のよく出来た探偵小説を読まされたように、次から次へ謎がとけて、その結末も谷川岳の美しい姿にふさわしく、一抹清涼の感をともなって幕を閉じたようである。
この結末も、結局は無智の生んだ罪であるが、身につまされて、悲しい罪ではある。
法師温泉の主人公が、本人はさとらずに、道標を書きちがえていたのである。彼は矢印の形をした道標に、先ず、矢印を左にして左書きに、仙の倉平標と書いた。さて、その板を裏返しにして、又、左書きに、仙の倉平標を書いた。板を同じ方向のまま裏返しにすれば字が上下逆さまになるから、上下逆さまにならないように裏返して、左書きに書いた。ところが、上下逆さまにならない代りに、今度は左右逆さまになることを彼は気がつかなかった。つまり表を左書きにしたから、裏は右書きにしなければ、表裏同じ方向を指さないのだが、彼はそこまで気がつかずに、上下逆さまにならないことにだけ注意して、どっちも左書きにしてしまったのである。その結果、次のような道標ができたのである。
[#道標の図(fig43202_01.png)入る]
即ち、表と裏は矢印の方向に全く逆を指し合っているのである。道標を立てる位置をまちがえたというのは当らない。この道標は、天下のどこへ立てても完全に通用しない。なぜなら、表裏アベコベを指しているからだ。もとより、法師温泉の主人に悪意のあろう筈はない。彼は、両面上下をそろえて左書きの結果が、アベコベを指し合うことを気付かなかったのであろう。
この怖ろしい事実が判明したとき、私はふと、私の義兄である村山紅邨という、越後山中の造り酒屋の主人公の歌人のことを考えた。彼はその山中に六百年ほど代のつづいた旧家の主人で、雑学の大家でもある。だいたい田舎の旧家には、雑学の大家が多い。こんな山中にと思うところに、案外にも、西洋の大学の卒業生だの、十年も西
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