う奴はケツ曲りで、ワガママが秀でて見えたり、頭が悪いので可愛く見えたり、一筋縄ではいかない。小説の場合、そうでないというほど、厳正なものではない。恋愛のヒタムキなのと、文学の厳正なのと、根は同じ程度のケツ曲り、筋違いのものかも知れないのである。
 場ちがい物はいけない。本場ものでなければ。と云ったって、本場というものは、誰の尺度だろう。物理数学とちがって、味覚に厳正な尺度や答えは有りッこないものだ。泰西の諺にも「味と色はあげつらうべからず」とある。してみれば、文学界に、一刻者や、ワガママ者や、酷薄ムザンで尚かつセンチな姐御などが存在して悪かろう理窟はない。
 菅原通済ともあろう通な旦那が、根にそれぐらいの寛容さが無い筈はなかろう。女のワガママにはずいぶんと思いやりがあって、案外、歴とした利口者よりも、オキャンでワガママで酷薄ムザンでセンチで一人ぎめの女の子が可愛いなどと多情多恨の一生を渡らせられたような気がするが、どうだろう。トマサンが、そうらしい。
 通人通家というものは、自分をいつわるものだ。人情に溺れるからである。人がよすぎて、意地が悪くなさすぎて、自分勝手でワガママなくせに、そ
前へ 次へ
全18ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング