知れない。
しかし、彼が戦後派特有の犯罪者だというのはジャーナリズム一般の通説で、言い合したように、彼らが何を考えているか見当がつかないとこぼしている。しかし帝銀事件の犯人と、この犯人と、どっちが戦後派的だろう? 帝銀事件の犯人の心事だって分らないことはないが、この犯人の心事はもッと平々凡々でよく分る。戦後派という特別の人間がいるという考え方がマチガイで、大人がこういう軽率な区分に安んじているから、彼ら戦後派なるものが、世代によって人間の質が違うかのような誤りを前提として思考するようになったのであろう。こういう一括的な、便宜的な見方がジャーナリズムから発生したなら話は分るが、世代論という珍奇な愚論は「近代文学」の批評家から現われたのだから、新世代の日本文学も暗澹たるものである。近代文学の世代論と、山際らの世代論と、文章や粉飾に差はあっても、世代論そのものの愚かさには何ら変りがない。両者は相棒であり、精神的同族でもある。
山際は無邪気である。日大の集金自動車の時間と道順を知っていて、待ちぶせて乗りこんだのだから大そう計画的であるが、助手台へのりこみ、横には運転手、うしろには二人の男をひかえ、たったナイフ一ツで百九十万円ふんだくろうというのである。ふんだくれたのがフシギではないか。成功を信じていたとすれば、山際の無邪気さもいささかナンセンスであるが、しかし何よりフシギなのは、易々《やすやす》と強奪された三人のダンナ方である。もしも戦後派という言葉があるとすれば、このフシギな三人づれのダンナ方がよッぽど戦後派的ではないか。警察のダンナ方が一時はこれを共犯と睨んだのは尤も千万で、それに価するだけの不可解な存在だ。もっとも、百九十万円がいくら大金だって、オレの金じゃないからな、という大精神かも知れない。
山際が捕まってから二世のマネをして、オオ、ミステイクと言ったというのは、バカらしいけれども、二世というフレコミで泊っていたあの際、あのようなことを言うのは、それほどバカげたことでもなかろう。
バカげた方はといえば、さッきの三人づれのダンナ方がどうしても犯人以上に奇々怪々的にバカバカしい。白昼である。はじめ大手町の何ントカ省前で二人降され、次に運転手が神田橋で降され、畑のマンナカではなくて、東京のマンナカ、何ントカ省という賑やかな官庁前や神田橋で降されて、犯人をつかまえ
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