るための手段ができないという三人のダンナのバカさ加減は、不可解に類する。
山際は三人づれに向ってナイフ一ツで仕事にかかったり、東京のマンナカで、二人降し、一人降しして、まるで、私をつかまえて下さいと頼んでいるような無邪気なことをしているのである。こんな間抜けな悪党というものはメッタにない。しかし、そのチャンスを全然つかむべく頭も手足も満足に廻転しない三人づれは、世代を超越してフシギである。山際に輪をかけて、珍奇なウスノロである。私には三人の旦那方の心事の方が特ダネ的に見えるのである。
手記をのせた新聞のミダシには「恋をするにもゲル(注、金のこと)」と、アプレ思想の一端をテキハツしたような扱い方であるが、手記の方は次のようなものである。
「(前略)今の社会を見ると若い世代が夢みる人生と(夢みるといっても決して童話的なものでなく)いうものが如何に多くのギャップ、ムジュンをはらんでいるか、少し考え過ぎると厭世的になるのも無理はないと思います。つまり余りにも物質的であると云うのでしょうか、幾らロマンチスト的に世を見ても所せん砂上の空中楼閣で、最後はリアリス的になるのです。所詮時代の流れに抗してもそれははかない努力であり徒労であると思う。僕等は恋愛するのでも始めはゲーテの若きウェルテルの悩みを経て詩的からだんだんリアリスティに終始する様になると云う事も言えるでしょう。極言すればゲル(注、金の意味)が無ければ恋愛も出来ないというムジュンに満ちた事になりそうです。確かに僕等の考えの根源を大人は理解して居ない。極く単純にギャバ族とかアプレとか一口に言って片づける筋合の物ではないと思う(後略)」(原文のまま)
この文章の要点を飜訳すると、若い者が今の社会に夢をもっても、社会の方が余りに物質的であるから、ロマンチックな夢はくずれ、リアリスチックにならざるを得ない。時代に抗してもはかない努力で徒労である。僕らは恋愛の始めに若きウェルテルの如く詩的であり、悩んでいるが、だんだんリアリストになるようである。アゲクには金《ゲル》がなければ恋愛ができないような、始めの志にくらべれば思いもよらぬムジュンにみちたことになりかねない。僕らが表面リアリスチックである根源を大人は理解していない、云々、という意味になるようである。
つまり「恋をするにもゲル」というのは、彼らの事志とちがった思いもよら
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