中が現れている。忍術の要領である。文明国のどこを探しても、こんなに物音のないところはないのである。私はラジオの音が何より仕事の邪魔だが、ここではその心配が完全にない。大そう私向きの旅館であった。その代り、殺人事件があっても、きこえない。ここで捕物帳を書いていると、そういうことを時々考えてゾクゾクすることもあり、おのずから捕物帳の心境となって、探偵気分横溢しすぎるキライがないでもない。
 この旅館の庭は、何百貫という無数の大石で原形なく叩きつぶされている。アイオン颱風というもののイタズラである。
 私はこの川が海にそそぐところの、小田原市早川口というところの堤の下で洪水に見舞われたことがあるが、利根川の洪水とは、趣きが違う。利根川の洪水は、大陸的に漫々的で、巨人的であり、死神の国の茫々たる妖相にみちて静寂であるが、早川の洪水は違う。こんなウルサイ洪水はない。
 箱根山上千|米《メートル》の蘆ノ湖から目の下の河口まで直流してくる暗褐色の洪水が、太平洋の水面より四五米の余も高く、巨大な直線の防波堤となって、一|哩《マイル》も遠く海中に突入しているのである。太平洋の荒波が、この水の防波堤につき
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