あるが、しかし、実際は、アサマシイとか、はずかしいとか、そのような体裁を絶した場で行われていることであり、それを直視して、承服する以外に手のないもののようである。それは、しかし、悲しいオモチャだ。ギリギリの最後のところで、顔をだすオモチャ。宿命的なオモチャであり、ぬきさしならぬオモチャだから。
 まずい食物は、それを食べなければよい。すきな食物を選んで満足することができる。しかし、肉慾はそうではない。それを充したり満足することができないものだ。肉慾に絶望して、肉慾の実行を抛棄しても、肉慾から解放されることはできないものだ。それは遁世しても真の孤独をもとめ得ないのと同じことだ。
 つまり、本当に孤独になるということと、本当に性慾から解放されるということは、どこまで生きてもあり得ない。彼が死に至るまでは。私はそれを下山総裁の事件をかりて、自分勝手のエスキスで現してみた。しかし、それは、下山氏の場合だけがそうではなくて、あらゆる人間がそうなのだ。
 彼がどのように偉くても、たとえば、徳行高い九十歳の文豪であろうとも、世を捨てた九十歳の有徳の沙門《しゃもん》であろうとも、彼の骨にからみついた人
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