く方法のちがうものだから、いっぺん、つくってみたくなるのだ。発想法も、表現の角度も、現実の捉え方も、全然ちがう。だから、時々、ひとつ、つくってみたいな、と思うのだ。
 私はいちど日映にいたこともあるから、いくらか、映画の社会を知っているが、しかし、素人の域を脱しない。だから、誰か演出の助手が必要だし、音楽家との密接な共力の必要のことなど考えると、そういう人間関係の煩労に、考えただけでも堪えられなくなってしまう。
 結局、小説を書いてるほかに手がないということになる。事、志とちがう点も、なきにしもあらず、なのである。決して、物臭さではない。時々、やりはじめるが、完成しないだけなのだ。

          ★

 私は、弟子というのも好きではない。私は誰の弟子でもなかったが、誰の先生になりたいとも思わない。
 第一、弟子というものが、先生に似たら、もう、落第だ。半人前にもなれやしない。自分に似たものを見るのは、つらい。
 しかし、芥川賞の選者をひきうけてから、責任を感じているので、なるべく同人雑誌に目を通すだけの殊勝な心を起すようになった。私が人のためにしてあげられることは、それだけだ、と、なさけない限度を心得ているからである。
 芥川賞の委員会で、佐藤春夫さん、岸田国士さんの選者ぶりが、一番私にはおもしろい。お二人ともリリックな、その作品の幅は狭い方々だが、選者としての目が非常にひろいのが、好ましいのである。佐藤さんの弟子はたいがい先生に似ておらず、非常に雑多であるが、選者としての佐藤さんも、まことに不偏不党、目がひろい。
 岸田さんときては、いつの委員会でも、みんなうまい、実に小説が上手だ、どれといって、実に、こまった、と云って、常にことごとく感心して選ぶのに悩みぬいていらッしゃる。素質ある芸術家は、他人のどんな小さな素質にも感心するのが当然で、岸田さんの素質のすぐれていることを証しているのだろうと私は思う。
 芥川賞にはもれても、立派な素質がある人は世間の目にもれないようにしてやりたい、ということ、それだけの義務はつくしてあげたいということは、ハッキリ考えているのだから、弟子になりたいなどと私のところへ押しかけてくる必要は毛頭ないのだ。弟子である必要はない。よい作品を書く人を世にだすことは、私のささやかな仕事の一つと思っているから。私は弟子を愛さない。よい素質と
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