りを持たないように心がけているのである。私は大学の先生方のようにウヌボレ屋のヒマ人とちがうから、とても、あなた方に物は教えてあげられない。私は書くのが商売で、みんな書いておく。あとは魂のヌケガラだから、書いたものを読んで、どうなと解釈すればよろしいのだ。
 昨日、このモミジという旅館へ遊びにきていた四人の女子大学生がある。
 レコードを一時間ほどジャン/\かけておいてから、廊下から首をだして、
「あの、レコード、邪魔ですか」
「やむを得ん」
「私たち、大学の新聞部の者ですが、お話きかせて下さい」
「ダメ、ダメ」
 ひっこんだ。しかし、二三分すると、また、顔をだして、
「ダンスしましょう」
「ダメ、ダメ」
 ひっこんだ。彼女らはヒマ人であるから、まことに、なれなれしい。しかし、ヒマ人の甲羅をへていないから、執念深く食いさがったり、アイクチを突きつけて脅迫するようなところがなくて、まだ、よろしい方だ。ダンスしましょう、というのは彼女らの地道な生活であって、貴下の政見は? などという足が宙にういてるヒマ人の言葉よりは数等よろしいだろう。
 こういうと、私がいかにも物臭《ものぐ》さで、なんにもやりたがらない人間のようにきこえるが、案外そうでもない。
 劇を書こうという考え、映画をつくりたいという考えなどを起すことがある。
 一昨年と昨年、それから今年になっても、三度、劇を書きはじめて、三度ながら中途で破ってしまった。劇を読ませるという目的だけで書き得たら、書きあげることができたろう。芝居道には素人の私であるから、読ませるだけの目的で書いても許してもらえそうだが、書きだすと、自然、見せることを主にして考えている。いつも、舞台を意識している。それで、つかえてしまう。
 見せる劇を意識すると、第一、劇の速力ののろさが筆をにぶらせ、近代劇の形式や、色々の制約に、疑惑をいだいてしまう。
 小説だと、どこでどなたが読むことだろうなどと考える必要はないが、劇というものは、舞台でなければ見せられないものだから、劇場の雰囲気のことまで考える。開幕をまつまでの見物人のことまで考えるに至るから、事ここまで思うに至っては、座付作者でもない私に筆の進むはずがなくなってしまう。第一、劇場も、雰囲気も、どこにも実在しないではないか。
 映画をつくってみたいと思ったこともある。なぜなら、映画は小説とまった
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング