では一席ぶとうとはコンリンザイ思わないのである。
しかし、文士が政治家であってはいかん、と云ってるわけではない。ゲーテはワイマールの宰相であったし、ビクトル・ユーゴーも総理大臣であったし、ずいぶん甘ったるい感傷小説の作者シャトオブリヤンのような人でも文部大臣をつとめていらッしゃった。前駐日大使ポール・クローデルはヴァレリイと並んでフランス詩壇の大御所であった。
しかし、文士が政治家でなければならぬわけもない。私は身の程をわきまえ、訪客にも会いたがらず、天下の政治については訊かれても返事をしない性分だから、その任にあらずということを心得ているのである。
人さまざまである。銘々が適したことをやればタクサン。
共産党という連中は特に誰かれ見さかいなく一席ぶちたがる人種で、それについてはキチガイめいた執念をもっている。そして、見知らぬ私に向っても、戦後の世相をどう思うか、とか、貴下の政見は? などと訊問したがる。つまり文化人というウヌボレ屋のヒマ人の中でも特別のウヌボレ屋の大ヒマ人で、自分の生活をもたないのが共産党になる。
批評家というのは、妙な商売だ。これ、商売かな? しかし、人の批評をよんで、まにあわせる人種もいるから、やっぱり商売往来の中にはいるかも知れん。
しかし、文学をやり、小説家になろうと思い、思うように小説が書けなくて批評家になったというのは話が分るが、はじめから批評家になろうと志を立てた人間というのは、どうも解せない。はじめから、人の批評をすべく志を立てたという、人の批評をすることを商売に選ぶという人間の魂胆が怪しいじゃないか。
つまり文化人というウヌボレ屋のヒマ人の中でも特別のウヌボレ屋の大ヒマ人で、自分の生活や手に職を持たないのが、批評家になる。批評家と共産党はウヌボレ屋の大ヒマ人の両横綱なのである。
こういう口達者な連中には堅く門戸をとざして会わないから、奴め、唐変木、キチガイの人間ギライめなどと言われる。しかし、私は人間は好きだ。大好きだよ。同類だもの。しかし、共産党と批評家は、ウヌボレ屋でヒマ人で生活がなくて、とても彼らの魂胆が解せないから、つきあわない。
大学生というのもヒマ人だ。しかし、これは、まだ商売の中にはいらないのだから、仕方がない。しかし、仕方がないと諦めているわけではなくて、ヒマ人にはつきあわない性分だから、彼らと交
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング