よい作品を愛すだけだ。
私のところへ原稿を送ってよこして、批評をサイソクするのも、やめなさい。返事がなければ、落第だと思うべし。しかし、私に会いに来たもうな。すでに書いたように、私は人に会いたくないのだ。会っても、なんの役にたつような教師の資格をもった人間でもない。私から学びたければ、私の書いたものをよんで、自分勝手に会得することだ。
私は誰にも会わないが、素質ある人を見出すことを忘れてはいないのだから。そして、私に似ているものを、よろこびはしないのだから。
三島由紀夫をなぜ芥川賞にしないのか、と云って、私のところへ抗議をよこした人がある。事情を知らない人々には、まことに尤もな抗議であるから、この機会に釈明に及んでおくが、三島君は芥川賞復活当時、すでに多くの職業雑誌に作品をのせ、立派に一人前に通用していたから、すでに既成作家と認め、芥川賞をやるに及ばぬ、という意見に全員一致していたからである。
私が意外の感にうたれたのは、戦後派賞という戦後派の人を選者にした賞で、島尾君が賞をうけたのは、それはそれでよろしいのだが、次席として、三島君の名を明記するに至っては、私は呆れはてた。
選者に人を得ないのだ。人の作品の選をするということは、子供にはできない。戦後派などという特別の美の規準があるとでも考えているような子供の目で、大らかな芸術を正しく認定するようなことができるものではない。選者の多くは、例の文化人、ウヌボレ屋のヒマ人の、共産党又は批評家的なるもののたぐいであるから、なんの怖れも知らない。
責任をもって人を推す、選をする、ということは、省れば怖しいことでもある。
私は、しかし、それが人のために私のしてあげられる唯一のことだと覚悟をきめて、正しく責任をつくしたいと念じ、とにかく私は私情によって左右されない自分にいくらか恃《たの》みがあったので引きうけた。引きうけたからには、良いものを見のがすことがないように、もらった雑誌はガリ版ずりでも生原稿でも、事情の許すかぎり読むように努力しているのである。
コチコチの一方的な偏見でしか物が見られない少年やウヌボレ屋のヒマ人に、選などはできないものだ。自分の弟子や流派に私情をもつ人にも選者の資格はないと私は思う。芸術はもっと大らかな大きなもので、小さな自己への怖れを知る人でなくては、物の正しい姿を認定することはできな
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