い。
選の狂いというものは、あるのが自然かも知れないが、戦後派賞のような、とんでもない狂い方というものは、あんまり頓狂すぎて、箸にも棒にもかかりやしない。芸術は一面に偏見でもあるが、さればといって、ホッテントットやブシュメン族を人間代表に、次席にアリアン族を選ぶというような当の失し方は許されるものではない。
戦後派の連中は、若くして戦争や冷めたい現実にもみぬかれ、年に似ぬ大きな良識をそなえているかも知れぬと、私はひそかに買い被っていた。彼らの偏倚は外面だけの歪みで、内には大きな良識があるのだろうと期待をいだいていたのであった。
まるで、もう、コチコチの文化人、ウヌボレ屋のヒマ人の、生活をもたない文化無頼漢である。
いくら、なんでも、とにかく、大らかな心を忘れたもうな。自分の生活の中から、ハッキリした自分の言葉を選び、自分の言葉で物を言うことを覚えたまえ。
私のところへ、ダンスしましょう、といって誘いにきた女子大学生は、まだしも、君らよりは大らかであろう。自分の生活も、もっているのだ。君らは自分の生活も持っていない。常に一席ぶちたがるけれども、ウヌボレ屋の大ヒマ人にすぎないのである。
芸術だけは、自由人のものでありたいと思う。芸術の世界でだけは、流派や徒党を失いたいものである。
もっと世間を怖れたまえ。庶民や市井人というものの、つつましい、無力ではあるが、地道に自分の生活をいとなむ人の、目や魂を怖れるがよい。
天下の政治を質問する大学の先生よりも、イヤア、どうも、ヘッヘッヘ、という市井人の方がはげしい批評をなしていることを知りたまえ。
こむずかしい屁理窟を知らない市井人は、自分たちだけの目で、ちゃんと三島由紀夫というものを認めている。君たちは屁理窟に通じ、屁理窟からの借り物の目で物を見て、自分の目で物を見ることを知っていない。つまり、生活人でなく、ヒマ人だからだ。
一席弁じようと心あせったり、世の中を啓蒙しようというような、ウヌボレ屋のヒマ人に、良識あるはずもなく、選者たるの資格もない。
私はグウタラで、ヒネクレ根性で、交際ギライの偏執狂であるが、しかし、私は、自分のつくすべき役割への責任を知り、人のために、自分でつくせる奉仕はつくしたいという心の正しい位置をつきとめている。そして交際ギライという殻の中から出はしないが、殻の中に隠れたままなしうる
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