を前に延命の灸をすえたというのは何でもないことである。死ぬまでは生きる日常であることは、ミイラにとっては当然なのだ。
 自分がミイラになると、現世の肉づきが却って美しく目にしみてくる。そして俗悪な企業意慾は高まる一方である。
 それは私が芸術家としての素質が不足のせいらしい。たとえば、ミイラは老残の身であるから、羞恥もなく鼻持ちならぬ恋はできても、とても青年のころのような夢のような恋をささやくわけにはいかない。しかし小説の中ではできるし、鼻持ちならないものも、そうでなく表現することができる。つまりミイラのお堂をたてることができる。根気はつづかないが、だんだん根気もよくなるようだ。十年、二十年、三十年もたつと、ずいぶん根気がよくなるかも知れん。
 しかしミイラの心境は語るべきものではなくて、金色堂を建立すべきもの、その一語につきるかも知れない。

          ★

 私はストリップ・ショオや新しいパンパンの誕生を歓迎しているのである。
 見世物や本は禁止すべき性質のものではなかろう。このような娯楽については、人々の判断は正直で、興がなければ、客がつかない。どんな田舎でも、そうだ。
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