プンとして鼻持ちならないものであった。骨董イジリの閑雅な精神には縁遠いものであった。
 晴耕雨読の心境ぐらいカンタンなものはない。乞食の心境である。人間というものは、助平根性や物慾や、妄執と一しょのもので、芸術は現世のものであり、そこから離れて存在しない。
 ミイラは現世だけしか見ていないのだ。その身は万年の後に残ることを考えていたかも知れぬが、見ていたものは現世だけだ。現世と、そして、妄執だけなのだ。そして、現世への妄執が具現したものが、法隆寺であり、金色堂であり、東照宮であった。高雅な精神などは、どこにもない。
 しかしながら、私のように、芸術家の素質が不足していると、ミイラになりかけてみないと、俗悪になりきることができないものだ。なんとなく高雅なものを空想したり、自分のみじめな現実に負けたりして、俗悪精神を羽いっぱいひろげることができない。チエホフだの、ショパンだのという人はミイラになりかけなくても、それができたのだから、天才なのである。
 私はミイラになりかけて、ようやく人間を見たようなものだ。あるいは、人間に、本当の人間になりかけたのかも知れない。
 数学だの物理学というもの
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