の新発見は、その人の十代から二十代のうちに行われるのが通例だそうだ。あとの一生はそれをフエンする一生だという。
 文学も、まア、そうだ。その人の限界は、だいたい二十代にそのキザシが確立されている。あとは技術的に完成するか、迷路を廻り路するか、そんな風にして、ふとっていくだけのことだ。
 しかしながら小説の技術というものが、修練と同時に、これも亦発見を要するものでもある。私はこれを俗悪の発見と名づける。万人の俗な根性を惹きつける最低線で、軽業を演じることが必要なのである。つまり、現世に生きなければダメなものだ。すくなくとも、作者は現世だけを見ていなければ、ダメなものだ。
 私はまだ、ミイラになりかけたばかりで、半出来までもいかないから、根気がつづかない。半出来のミイラが目の玉を光らせて迷っている図はバカバカしい。
 仙人は雲から落ちるが、ミイラは落ちない。人間よりも地べたにおり、人間よりも妄執と一しょにいるのだから、人間よりも鼻持ちならないのだから、人間に昇格することはあっても、落ちるはずはない。ねむるように死ぬことと、女を追っかけるということと、いっしょにいるようなのがミイラなのである
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