パンパンとても同じことで、男の美意識の向上につれて、パンパン自身向上するか、見捨てられるか、場末へ落ちのびるか、どれかしかない。美や芸術は、こんなところから、一番露骨な低いものから、地道に向上して、生れてくるものなのである。一応の手間が、かかるものだ。
しかし、美や芸術というものは、助平根性を遊離して、神韻ビョウビョウと、星の如くに高く輝くようなものではなかろう。生身の助平根性と一緒に、喜怒哀楽、嫉妬もし逆上もする現実の生活と常に一しょにあるものだ。
一般大衆が芸術を愛するときは、自分の生活として愛しているのであり、恋の伴奏、必要のためのジャズでありヴギウギであり、実用品なのだ。つくる方もそれを承知の、俗悪な企業なのである。日常品としての実用性、実質をそなえていることが必要だ。ショパンでも、モオツァルトでも、それが出来たときは、そうだ。当時のジャズであり、ヴギウギであり、日常の必要品であったのだ。
法隆寺も、金色堂も、東照宮も、威勢を示してアッと云わせて、ついでにオサイセンもまきあげてやろうという料簡でできたもので、その時代に於ける最大なる俗悪精神の産物であった。人間の悪臭フン
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